畠山
【読み】はたけやま,はたやま,はたや,はだやま,はけやま
【ローマ字】
【全国順位】
304位
【全国人数】
およそ69,900人
由来解説
最終更新:2026/06/05 01:30:55 最終更新者:匿名
【読み】はたけやま,はたやま,はたや,はだやま,はけやま
【ローマ字】
【全国順位】
304位
【全国人数】
およそ69,900人
最終更新:2026/06/05 01:30:55 最終更新者:匿名
| 都道府県 | 人数 |
|---|---|
| 秋田県 | およそ9,800人 |
| 岩手県 | およそ7,900人 |
| 北海道 | およそ7,700人 |
| 宮城県 | およそ7,000人 |
| 東京都 | およそ6,800人 |
| 市区町村 | 人数 |
|---|---|
| 宮城県気仙沼市 | およそ3,900人 |
| 秋田県大館市 | およそ2,600人 |
| 岩手県花巻市 | およそ1,400人 |
| 岩手県一関市 | およそ1,300人 |
| 秋田県秋田市 | およそ1,200人 |
| 都道府県 | 比率 |
|---|---|
| 秋田県 | 1.04228% |
| 岩手県 | 0.66554% |
| 宮城県 | 0.31438% |
| 北海道 | 0.15072% |
| 青森県 | 0.10835% |
| 市区町村 | 比率 |
|---|---|
| 岩手県下閉伊郡田野畑村 | 16.331% |
| 秋田県南秋田郡八郎潟町 | 7.284% |
| 宮城県気仙沼市 | 6.152% |
| 岩手県下閉伊郡岩泉町 | 4.603% |
| 秋田県北秋田郡上小阿仁村 | 4.419% |
| 名前 | 生年月日 | ジャンル | 備考 |
|---|---|---|---|
| 畠山 智妃 | 1988年 11月 4日 | 芸能人 |
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| 畠山 円耀 | 歴史 | 鎌倉時代の武士、僧侶、畠山重忠末子、慈光寺別当23代目住職 | |
| 畠山 昭高 | 1534年 | 歴史 | 河内畠山家当主 |
| 畠山 貴志 | 1976年 6月 18日 | 音楽家 | KREVA、ラッパー |
| 畠山 みどり | 1939年 4月 5日 | 芸能人 | |
| 畠山 久 | 1958年 2月 9日 | 芸能人 | |
| 畠山 政国 | 1502年 | 歴史 | 河内畠山家当主 |
| 畠山 義総 | 1491年 | 歴史 | 戦国武将、能登守護大名・戦国大名、能登畠山氏7代当主 |
| 畠山 健介 | 1985年 8月 2日 | スポーツ選手 | 元ラグビー選手 |
| 畠山 武 | 1924年 8月 14日 | 経営者 | 経営者(北海道テレビ放送社長、会長) |
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| 畠山さん みんなの名字の由来 |
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石川県の旧河北郡宇ノ気町史の中の上田名地区記述によれば、「肝煎と岡部家」として村には制限された自治が許されておりその責任者としての村役人のうち、首長を肝煎といい、その肝煎を勤めたのが、上田名村では岡部本家である。 岡部家は、上田名随一の旧家で、江戸時代初期は十村であった。初代岡部随林は、羽咋郡紺屋町村の郷士岡部弥八郎の嫡男になっているが、実は岡部家の過去帳(洞谷山永光寺護国禅寺)によると、畠山義則(=義綱)の二男で、妻は七尾城が落城したおり、上田名地区にあった道満寺にかくまわれていた畠山重則の息女であったとなっている。 過去帳ではそうなっているが、「重則」とある記述が誰かはわかっていない。「随林」に関しては、畠山義隆の弟として、Wikipedia内にも記述がある。この「洞谷山永光寺護国禅寺」は、峨山禅師が、現在は祖院となっている曹洞宗総本山の一つ「總持寺」と双方の住職を務めていた寺。 この岡部家は、長い間永光寺の門徒総代を務めている。上田名地区に住み着いたのは、当時の村の有力者「甚右エ門」(田中甚勇家)の尽力があったものと思われる。 天正10年(1582)末森の合戦の戦功により、天正12年(1584)金津庄の村々の山役銭(十村役)を拝領することとなった。そのあと二代目弥左衛門・三代七兵衛・四代弥左衛・五代義右衛門・六代弥左衛門・七代義右衛門・八代茂助・九代弥左衛門・十代弥八郎と代々肝煎を勤め、上田名村を支配している。 となっている。 |
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【投稿日】2026/05/22 11:26:10 【投稿者】匿名さん |
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三河畠山氏(足利氏の一族)は、室町時代、室町幕府奉公衆として、畠山宗元が三河国志貴荘に下向。 志貴荘の荘館である安城古城を本拠にした。その後和田氏と改め、和田親平の代に、安祥城を築城して移る。安祥城は、松平信光の奇襲で落城した時の城主は、徳川実紀によると、畠山加賀守某という。 |
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【投稿日】2026/05/22 11:25:15 【投稿者】匿名さん |
| 鎌倉時代に源姓畠山氏から分かれた一族としては、日向に畠山氏の庶流の一族がある。また、失脚し没落した畠山国清の子孫の系統が存続したとされる(西谷内畠山氏)。薩摩に下向した一族もあり(阿多氏)、島津氏の家臣長寿院盛淳(阿多盛淳)は、その子孫である。 |
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【投稿日】2026/05/22 11:24:49 【投稿者】匿名さん |
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源姓畠山氏の祖・足利義純の子孫のうち、義絶した新田家の娘との間の子らは、岩松氏となる。 岩松家は新田一門として活動、後に新田家の末裔を称した(詳細は岩松氏を参照)。 |
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【投稿日】2026/05/22 11:24:26 【投稿者】匿名さん |
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尾州家は金吾家から別れ、主に紀伊国と越中国に勢力を有した。 文明9年(1477年)に終結した応仁の乱の後、山城守護となった畠山政長は管領となったが、文明17年(1485年)に山城国一揆が起こり失脚、山城守護の任を解かれた。 その後、細川政元と対立する10代将軍足利義材に政長は重用され、明応2年(1493年)には、遂に将軍自らによる畠山総州家討伐が実行された。 しかしその遠征中に細川政元、日野富子によりクーデターが起こされる。 政長は子の畠山尚順を逃して討ち死にし、足利義材は将軍の座を失った(明応の政変)。 紀伊に逃れた畠山尚順は、足利義材を擁して、周防国から上洛した大内義興や細川高国と結んで船岡山合戦に参戦、総州家の畠山義英を破った。しかし管領には、細川高国、山城の守護職は大内義興が任命された。 尚順は領国運営の為、嫡子の畠山稙長と二元政治を行なった。 その後、管領・細川高国と将軍・足利義材が対立すると、稙長は細川高国、尚順は足利義材に味方して永正17年(1520年)に尚順は堺に追放された。 しかし、畠山稙長も天文3年(1534年)に遊佐長教により追放され、その後はも畠山長経、畠山晴熙、畠山弥九郎と尾州家の当主が短期間に交代、太平寺の戦いに乗じて稙長が再度復帰、稙長没後は畠山政国が名代となる。 天文20年(1551年)に遊佐長教が刺客により暗殺されると、政国の子の畠山高政が実権を復した。 高政は、三好長慶、三好実休、三好三人衆と争い、足利義昭や織田信長と結んだ。 その後高政は隠居したが、天正元年(1573年)に信長派だった弟の畠山秋高が義昭派の遊佐信教に殺され、河内守護家は滅亡する。高政は河内奪還を図るも果たせず、天正4年(1576年)死去した。 その後高政の弟・政尚の子である畠山貞政は、紀伊に拠点を移し勢力を盛り返した。貞政は徳川家康と連携するなど、羽柴秀吉に対抗した。 しかし後に、豊臣政権により放逐され尾州家は全領地没収という形でついに完全に滅亡した(紀州征伐)。 貞政の子である畠山政信は、大和で放浪中豊臣家重臣の片桐且元に出会い、片桐家に仕官することとなった。人柄を認められ且元の娘婿となり片桐家重臣となる。 政信は能書家としても極めて有能であり、豊臣秀頼の祐筆として且元に推薦されることによって豊臣家の直臣となった。 しかしやがて片桐且元が豊臣家から徳川家へと主人を変えると、且元の近親であった政信も豊臣家にいづらくなり豊臣家を退散。その後、徳川家光の代に徳川家へ仕えた。 政信の子孫は、江戸幕府の高家の内の一家となって、その後も幕末まで家系は続いた。明治維新後の当主畠山基永は足利に復姓し士族。 |
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【投稿日】2026/05/22 11:23:42 【投稿者】匿名さん |
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総州家は金吾家から別れ、主に大和国と河内国に勢力を有した。 応仁の乱の最中、山名宗全と細川勝元が死去したのち、東・西両軍の和睦が進められる中、畠山義就は講和に反対、文明9年(1477年)9月21日に畠山尾州家の政長討伐のため、河内国へ下り諸城を攻略、政長派の守護代遊佐長直を、若江城から追い河内を制圧した(若江城の戦い)。また、義就派の越智家栄と古市澄胤らも大和国を制圧、政長派の筒井順尊・箸尾為国・十市遠清は没落、義就は河内と大和の事実上の支配者となった。一方、京では義就が河内方面に下向後の11月11日、東西両軍の間で講和が成立、西軍は解散した。 文明14年(1482年)、幕府の命を受けた管領の畠山政長と細川政元連合軍が義就追討に出陣したが、義就はこれを撃退している。 義就の跡を継いだ畠山義豊は、明応2年(1493年)に10代将軍足利義材と畠山政長を主力とした幕府軍の追討を受けるが、管領細川政元によるクーデター(明応の政変)が勃発し、細川政元と同盟した義豊は、逆に畠山政長を自刃に追い込んだ。 政長の子・畠山尚順は紀伊に逃れた。しかし、明応6年(1497年)、義豊の家臣の遊佐氏と誉田氏が内紛を起こし、これに乗じた畠山尚順が紀伊で挙兵、居城の河内高屋城を尚順に落とされ、義豊は山城へ逃亡、明応8年(1499年)に河内で戦死した。 義豊の子の畠山義英は細川政元の後援の元、畠山尾州家との戦いを優勢に進めたが、義英は畠山尾州家と和睦し細川政元と対立した。 更に、永正4年(1507年)に起きた永正の錯乱直後に、高屋城を奪い返した。その後の両細川の乱において、義英は阿波国の細川澄元の娘を子の畠山義堯の妻に迎えて同盟し、足利義材を擁する細川高国、大内義興、畠山稙長ら幕府軍に対して抵抗を続けた。 畠山義堯は、重臣の木沢長政の補佐を受けて大永7年(1527年)、細川高国が桂川原の戦いに敗れて高国政権が崩壊すると、阿波国の細川晴元が擁していた足利義維が和泉国堺に上陸し、堺公方が成立した。 義堯は管領に就任、阿波細川家の重臣の三好元長と共に細川高国派の朝倉宗滴と戦っている(川勝寺口の戦い)。 さらに、享禄5年(1532年)三好元長と共に、離反した木沢長政の居城・飯盛山城を攻囲、戦局を優位に進めていたが、木沢長政の支援に現れた一向一揆に敗れて、義堯は自刃した(飯盛城の戦い)。 家督は義堯の子の畠山在氏が継いだ。しかし実権は木沢長政が掌握しており、天文11年(1542年)の太平寺の戦いにおいて木沢長政が三好長慶と遊佐長教により敗死すると、木沢長政の勢力の中核はかつての総州家の被官だった国人衆であったため、長政と共に総州家も実質的に滅亡した。 なお在氏の子、畠山尚誠は足利義昭の上洛を助け、義昭による足利将軍家継承を実現させた。これには、尾州家も協力した。その後の消息は不明である。 |
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【投稿日】2026/05/22 11:19:45 【投稿者】匿名さん |
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高国の弟・貞国の系統。 代々、衛門督や衛門佐に任じられたため、金吾家(金吾は衛門府の唐名)とも称された。 本来の嫡流である奥州畠山氏が冷遇されていったのと対照的に、庶流である畠山国清は知勇に優れていたため重用されており、紀伊国および和泉国の守護に任じられ、後に河内国の守護にも任命され、河内畠山氏の始まりとなった。 観応の擾乱において、国清は当初は直義派であったが、嫡流で尊氏派であった高国・国氏父子の敗北した後まもなく尊氏派に鞍替えして、没落した奥州畠山氏に代わって畠山氏の惣領格となる。 鎌倉の足利基氏を補佐する関東執事(関東管領)として活躍、さらに将軍足利義詮の執事細川清氏と共に仁木義長を追放して一時中央の政務を壟断したが、のちに義詮や基氏と対立し失脚、河内畠山氏は畠山国清の弟・畠山義深の系統によって受け継がれる。 義深の子の畠山基国は、当初は鎌倉公方に仕えていたが、次第に足利義満の側近化して京の室町幕府を中心に活動するようになり、管領家の細川京兆家と斯波武衛家が対立する中で第三勢力として台頭、能登国の守護職を獲得、のちに畠山氏の人物として初めての管領職に任命される。 これ以降、河内畠山氏は代々管領を輩出する家柄となった。 ちなみに現在の京都市上京区畠山町は、この付近一帯に管領畠山氏の邸宅があったことに由来する地名である。 畠山満家・畠山持国は、管領として幕政において重きをなしたが、持国の後継を巡り畠山政長と畠山義就の子孫が互いに争い、応仁の乱後も両家が分裂し、内紛を続けた。西軍であった義就流畠山氏は官途の上総介から総州家、東軍であった政長流畠山氏は官途の尾張守から尾州家をそれぞれ称した。 応仁の乱前後、畠山氏家臣団はそれぞれ政長方、義就方に分かれるなど混沌とした。 戦国時代になり、畠山氏の当主の権力が弱くなるにつれて、在地勢力でもあった「国人衆」・「大和衆」が力を有するようになったが、守護代として権力を掌握した遊佐氏・神保氏は「鎌倉衆」「鎌倉以来」の家柄であった。 畠山氏家臣団は大きく分けて、出身により「武蔵衆」、「足利衆」、「鎌倉衆」、「国人衆」、「大和衆」の五系統に分かれる。 |
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【投稿日】2026/05/22 11:17:40 【投稿者】匿名さん |
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坂東八平氏一族・秩父重弘の子・秩父重能が、武蔵国男衾郡畠山郷(はたけやまごう、現埼玉県深谷市畠山周辺)に所領を得て、畠山姓を称したことに始まる(平姓畠山氏)。 治承・寿永の乱において、その子畠山重忠は、はじめは平家方についたが後に源頼朝に従い、一ノ谷の戦いや奥州合戦などで活躍した。 重忠はのちに北条時政と対立、元久2年(1205年)に武蔵国二俣川で、北条義時の軍との戦闘で敗死した(畠山重忠の乱)。 その後重忠の旧領と畠山の名跡は、足利義兼の庶長子・足利義純が重忠の未亡人である北条時政女と婚姻し、継承された(源姓畠山氏)。 義純はもともと新田義兼(足利義兼と同諱の従兄弟)の娘と婚姻し子も儲(もう)けていたが、その妻子を義絶した上での継承であった。 桓武平氏のひとつ秩父平氏の流れをくむ平姓畠山氏はここに消滅、清和源氏のひとつ河内源氏の一系・足利家の一門として存続することとなった。 義純の家系(源姓畠山氏)は、名門・畠山氏の名跡を継承したことから、後に足利一門の中で別家扱いの足利尾張家(武衛家、つまり斯波家)に次いで高い序列に列せられており、細川家など他の家臣筋分家とは異なる待遇を、足利宗家から受けることになる。 紀伊および河内・越中の守護をおおむね務め、分家は能登守護を務めた。 建武3年(1336年)に足利尊氏が室町幕府を創立、畠山氏はこれまでの功績によって越中・河内・紀伊の守護に任じられた。 足利家内紛である観応の擾乱では、庶流の畠山国清は、足利直義方に付くも後に尊氏方に鞍替えして家勢を保ち、一方で畠山氏嫡流の畠山高国・国氏父子は、観応2年(1351年)直義派の吉良貞家に敗れ自害、国氏の子二本松国詮は二本松に移った(奥州畠山氏)。 本来の嫡流である奥州畠山氏が衰退する中で、畠山国清の家系(金吾家)が畠山氏の惣領格となる。 国清は関東管領に任命され東国で南朝方と戦うが、その後鎌倉公方の足利基氏と対立、康安元年(1361年)に失脚した。 国清はそのまま没落するが、国清の弟の畠山義深が、のちに守護に任命され畠山氏を再興させる。 義深の子・畠山基国は明徳2年(1391年)の明徳の乱で功績を挙げるなどして足利義満の信任を受け、能登の守護を任されるなど、守護大名として力をつける。 応永5年(1398年)には管領に任じられ、同じ足利一門の斯波武衛家や細川京兆家とともに、三管領家として名を連ねる家柄となった。 基国の子・畠山満家は義満には冷遇されたが、足利義持の代になって表舞台に復帰、管領に就任する。 満家の子・畠山持国(徳本)は、将軍権力の強化を目論む足利義教の干渉に苦しめられるが、畠山氏の内紛を鎮めて細川家や山名家と拮抗する勢力を維持した。 しかし持国の子畠山義就と、甥畠山政長との間で家督をめぐっての激しい争いが起き、それが後の応仁の乱の一因になった。 文明9年(1477年)に応仁の乱の終息後も義就流(総州家)と政長流(尾州家)は内紛を続け、この対立は両細川家の乱と共に畿内を内戦状態とする主因となった。 また、畠山政長(畠山尾州家)や畠山義堯(畠山総州家)は管領に就任したが、戦国末期に両家でそれぞれ、木沢長政(畠山総州家)や遊佐長教(畠山尾州家)による下克上が起こった。 越中国は守護代の神保氏に奪われ、河内国も度々守護代の遊佐氏に脅かされたが、尾州家の紀伊だけは、最後まで勢力を保った。 江戸時代においては尾州畠山氏と能登畠山氏が、高家として残った。明治維新後、尾州畠山氏の当主畠山基永は足利に復姓、士族に編入された。 能登畠山氏の方は畠山姓のまま士族となった。 1884年(明治17年)に華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『華族令』案や『叙爵規則』案では元高家が元交代寄合とともに男爵に含まれており、足利家(尾州畠山氏)と能登畠山氏も男爵を授けられるべき家にあげられているが、最終的な『叙爵内規』では高家も交代寄合も対象外となったため、結局両家は士族のままだった。 |
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【投稿日】2026/05/22 11:13:05 【投稿者】匿名さん |
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奥州二本松城に拠った、かつての奥州四管領の一雄・畠山氏後裔にあたり、二本松畠山氏、二本松氏とも呼ばれる。 源姓畠山氏祖・足利義純の嫡流は、本来この二本松の奥州畠山氏であったが、観応の擾乱において、畠山高国・国氏は足利直義方の吉良貞家に敗れ自害、国氏の子二本松国詮は二本松に移ったが、戦国時代には一国人にまで衰退した。 天正13年(1585年)、当時の当主・二本松義継が、伊達氏との抗争の中で討死、国人領主としての二本松氏も滅亡する。 義継の次男である二本松義孝は、蘆名氏や佐竹氏などに仕えた後、徳川氏譜代大名である水野氏に仕えた。 水野忠邦の転封運動に反対し、諌死した家老・二本松義廉はその子孫である。 |
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【投稿日】2026/05/22 11:08:38 【投稿者】匿名さん |
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能登畠山氏は、初代・畠山満慶が、修理大夫を官途としたため、その唐名の「匠作(しょうさく)」より、畠山匠作家と称された。 修理大夫は畠山国清の官途であり、二代・義忠や、子である義有の称したとされる阿波守も同様、国清の称したものであることから、没落した畠山国清系統の再興を意図したのではないかとの指摘がある。七尾畠山氏ともいわれる。 能登国は、当初は能登吉見氏が守護を務めていたが、康暦の政変において、細川頼之派であった吉見氏興が失脚、代わって守護となった本庄宗成(義満の寵臣の一人で元々日野家の家人)も、また統治に失敗があったため、足利一門にして足利義満の信頼の厚かった畠山基国が守護となり、以降は畠山氏分国となった。 初代当主である畠山満慶は、父である畠山基国没後、当時足利義満の逆鱗に触れ蟄居していた兄・畠山満家に代わり、畠山氏本家の家督を継いでいたが、義満の没後に満家が赦免されたため、満慶は家督を兄の満家に返還した(当時は「天下の美挙」といわれた)。 兄の満家は感謝の意により、分国のうち能登一国を満慶に与え、応永15年(1408年)に畠山満慶を初代とする能登畠山氏が創設された。 満慶と第2代当主・畠山義忠は、在京守護であり、所領の支配は守護代の遊佐家に委ねられていたが、応仁の乱後、第3代当主・畠山義統が、能登に下向したことで在国大名化、強力な領国支配体制を築き定着していったことで、他国の守護大名分国で起こったような下剋上が能登では起こらなかった。 しかし、第4代当主・畠山義元の時、弟の畠山慶致との間で兄弟争いが起こり、明応9年(1500年)には慶致派の守護代の遊佐統秀によって義元は追放、第5代当主に弟の慶致が擁立された。だが一向一揆など戦国の状況が能登でも差し迫ってくると、永正3年(1506年)、両者は和解して義元は復帰、再び当主となった(代わりの条件として、慶致の子・義総が義元の後継者と設定された)。 第7代当主・畠山義総は名君とされ、畠山氏のお膝元である七尾は都から公家も転居してくるなど、「小京都」と呼ばれるほどに栄え、能登畠山氏家もまた大いに繁栄した。 しかし義総が死去、第8代当主として畠山義続が家督を継ぐと、統制が乱れ、畠山七人衆と呼ばれる重臣の権力者グループに実権を握られ、当主は傀儡化されてしまう。 第9代当主・畠山義綱のときに内乱を一時鎮圧、大名権力を奪回し、専制支配を行ったが、重臣たちの反発を招き、当主の追放というクーデターに発展した。 その後、また重臣たちに権力を握られ、内部紛争が続き衰退の道をたどった能登畠山氏は、天正5年(1577年)に越後の上杉謙信の侵攻を受けて滅亡した。 義綱の弟・畠山義春(上杉義春)は上杉景勝に仕え、その姉を正室に迎えて上条上杉氏の名跡を継いだ。 上杉義春(入庵)は豊臣秀吉直臣となり、天正15年(1587年)、河内国高安郡のうち500石を与えられる。 天正18年(1590年)摂津国豊嶋郡に300石を加増、文禄・慶長の役では肥前国の名護屋城に在陣している。翌年、河内国交野郡に700石を加増され、父の遺領を合わせて1500石を知行した。 関ヶ原の戦いで、義春は東軍に属し、1601年、自領とは別に次男の上杉長員に下総国印旛郡ほか1,490石を加増。長員は高家旗本上杉家の祖となる。 義春の長男・畠山景広は、上杉景勝に仕え続けて、米沢藩一門衆・重臣となった。 三男・畠山義真が、父の実家である能登畠山氏の名跡を継承、江戸幕府高家肝煎畠山氏の初代となった。 江戸時代中期、当主は江戸猿楽町や木挽町に居住していた。 上杉綱勝が僅か8歳で米沢藩3代藩主となると、義真は江戸城登城の際に必ず同伴するなど、後見的な役割を果たした。万治2年(1659年)に隠居し、家督を次男・義里に譲った。 延宝2年(1674年)、90歳を超える長寿で大往生した。 義里の長男・義寧も、米沢藩上杉家の江戸屋敷にしばしば出入りしており、また自身の三男・知義を高家上杉家(上杉義陳)の養子に出している。 元禄15年(1702年)12月15日、赤穂浪士たちに対し、父の復讐のため追討軍の派遣を企図した上杉綱憲を諌止している。 しかし創作(小説や映画、ドラマなど)では史実と異なり、その役割は上杉家の名家老だった千坂高房や色部安長に変更されている。 その後も高家・能登畠山氏には、上杉吉憲の三男である義紀が養子入りするなど、米沢藩とは関係が強かった。 維新後は足利に復姓した本家と異なり、畠山姓のまま士族となった。 畠山上杉氏(能登畠山氏別家)は、宝暦10年(1760年)、米沢藩主・上杉重定の長男として誕生した上杉勝熙は、後に畠山氏を称する。 勝煕の子である斉定や、勝義が米沢藩主や支藩の米沢新田藩主を継ぎ、以後この両家は、廃藩置県の後に至るまで(上杉宗家は現在まで)勝煕の血筋で続くこととなる。 このため畠山上杉氏は、三男・勝庸が継承、長男・勝輝、その弟・勝広、勝持(勝広の子)、勝嘉と続く。 米沢藩には前項のように、上杉景広の子孫が米沢藩の一門重臣・能登畠山氏としてあるが、勝煕の家は藩主家族の扱いで明治に至る。 上杉重定-畠山勝熙-勝庸-勝広-勝持-勝嘉 |
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【投稿日】2026/05/21 22:37:47 【投稿者】匿名さん |
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本姓は桓武平氏良文流。平安末期から鎌倉時前期にかけて、武蔵国で勢力を張った豪族、秩父氏一族で『平家物語』にもその活躍が描かれている畠山重忠が著名だが、鎌倉幕府の内部抗争で、北条時政の策謀により滅ぼされた。その後、足利義純が畠山姓の名跡を継ぎ、これが三管領家として名を連ねる家柄となった源姓畠山氏となる。 秩父重綱の息子・重弘は長男あったが、秩父氏の家督を継ぐことはなく、弟である重隆が継いだ。重弘の長男・重能は武蔵国男衾郡畠山郷(現・埼玉県深谷市畠山)にて畠山氏を称したが、これが平姓畠山氏の始まりである。 なお、弟の有重は小山田氏を称し、妹は千葉常胤に嫁いでいる。 本来嫡流であるはずであったが、惣領の地位が叔父重隆に握られていることに重能は不満があったようで、大蔵合戦で源義平の軍勢に従い叔父重隆を滅ぼした。この時、重能は重隆の娘婿である源義賢の遺児駒王丸(のちの木曾義仲)の命を救っている。惣領を巡る争いは後々まで尾を引き、結果的には秩父氏衰退の遠因となった。 1180年に以仁王が挙兵した際、『平家物語』によれば、重能は大番役として京都にあり、平家の忠実な家人として各地で戦った。 続く伊豆国における源頼朝挙兵において、重能の息子・重忠は、本家の河越重頼に従い頼朝追討軍に参加したが、後に服属。 そして重忠の代に、頼朝の平家追討、奥州合戦で功を立てたばかりではなく、本家の河越重頼・重房が粛清された後、秩父氏惣領の座も得ることとなった。 かくして重忠は「武士の鑑」と称えられることとなった。そして重忠は正室に、北条時政の六女を迎えている。 しかし、重忠と北条時政及びその妻である牧の方との間に、武蔵国支配を巡り対立があった。 1205年に時政は重忠の従兄弟である稲毛重成・榛谷重朝を抱き込み、最初に重忠の嫡男重保を血祭りに挙げた。重忠も息子の重秀と共に武蔵国二俣川で討死(畠山重忠の乱)。 稲毛・榛谷一族も後に滅ぼされ、平姓畠山氏の嫡流は滅亡した。重忠の遺児・重慶も後に粛清され、その後畠山の姓および所領は、重忠の妻と再婚した足利義純が継承することとなった(源姓畠山氏)。 |
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【投稿日】2025/11/08 15:09:43 【投稿者】匿名さん |
| 聖徳太子一族で天武天皇の子孫である田中氏が開墾地名につけた地名で子孫や家臣などが名乗っています。 田中の先祖の手白香皇女の白、田中の田、田中の先祖の山下影日売の山を組み合わせた地名です。 田中の娘中臣豊子が桓武天皇に嫁ぎ曾孫の平高望が桓武平氏を立ち上げ、子孫が畠山に住み名乗っています。 また嵯峨源氏田中澄の娘保子の娘が清和天皇に嫁ぎ清和源氏につながります。田中の子孫の源平が畠山に住み地名を名乗っています。 |
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【投稿日】2025/07/02 06:38:27 【投稿者】妹子と天武天皇と坂上と鎌足の子孫・小町さん |
足利氏族の二引両【釜蓋】線が太く力強い。
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【投稿日】2025/01/05 17:05:02 【投稿者】史綱の兄さん |
| みんなの名字の由来 投稿 |
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| 畠山さん みんなの家紋のはなし | |
|---|---|
![]() 丸に橘 |
【都道府県】奈良県 奈良の吉野に先祖代々の墓があり、墓に刻まれた紋が「丸に橘」 恐らく、応仁の乱で吉野へ逃げた畠山義就に関係が深いと思われるがなぜこの紋になったかは不明。
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| 【投稿日】2020/02/03 19:50:28 【投稿者】もずく。さん | |
※名字の順位・人数は2026年04月時点の政府発表統計および全国電話帳データを元にルーツ製作委員会が独自に算出したものです。
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青曽 眞保 東 赤尾 政所 野老 富松 九鬼 文 上荒磯 吉荒 廣常 三合堂 五百藏 垣ケ原 筥崎 女鳥 主代 品衛 原ノ後 野土 余百 黒井 北角 仁賀井 五百城 後藤 土川 向平 億 割鞘 平土井 的場 嵐田 狭間 花王 佐柄 鍋野 槙 尾留川 古井 海下 日裏 蛇渕 入汐 戀津 沓名 白井 小鮒 兄父 日向 田邉 享保 傍島 戸敷 分須 上簗 八百屋 高祖 浦中 小林 佐山 大阪 芳賀 岡 宍倉 記虎 嶋守 方釈 小漆間 蕪木 玄野 岩込 赤塚 宮留 天神山 阿部 朴澤 鱸 矢場田 洞木 栗花落 駒野谷 野嶽 阿崎 苔縄 杉井 伝法寺 本渡 西畝 梨本 飼沼 熊元 竹田 桜田 登上 多原 鎌江 重盛 鋒山
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| 順位 | 日別TOP10 | 月間TOP10 |
|---|---|---|
| 1 | 佐藤 | 佐藤 |
| 2 | 鍵野 | 竹前 |
| 3 | 田中 | 井 |
| 4 | 鈴木 | 田中 |
| 5 | 一 | 鈴木 |
| 6 | 森保 | 開發 |
| 7 | 高橋 | 〆木 |
| 8 | 山田 | 信井 |
| 9 | 瑞慶覧 | 越雲 |
| 10 | 中村 | 儀間 |
| 1 | ブラジルやアメリカの日系二世のルーツ調べ |
| 2 | 夫婦は別紋が原則 女紋について |
| 3 | 大姓の割合について |
| 1 |
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江淵 |
| 2 |
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丹羽 |
| 3 |
丸に木瓜
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福田 |
| 4 |
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丹羽 |
| 5 |
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伊藤 |
| ■新着・更新 | ■情報求む |
|---|---|
| 渡邉 | 車井 |
| 桝居 | 西林覚羅 |
| 粟田口 | 割鞘 |
| 糟谷 | デメデイロ |
| 溜貝 | 芭蕉宮 |
| 本橋 | はばき |
| 草野 | 鹿子島 |
| 一ツ山 | 下㹦 |
| 米長 | 㮈本 |
| 中川 | 惣卜 |
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| 名前 | ジャンル | 共有 |
|---|---|---|
| 有泉 亨 | 研究者 |
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|
| 黒田 宣政 | 歴史 |
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|
| 四条 隆平 | 歴史 |
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|
| 古川 龍生 | 芸術家 |
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|
| 大神 いずみ | 芸能人 |
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※ランダムで5名表示されます。今日誕生日の有名人一覧へ
| 順位 | 名前 | 生年月日 | ジャンル |
|---|---|---|---|
| 1 | 瑞慶覧 真弓 | 1980年 6月 9日 |
芸能人
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| 2 | 熊澤 玄徳 | 1991年 6月 10日 |
芸能人
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| 3 | 杣友 厚 | 1949年 6月 10日 | スポーツ選手 |
| 4 | 石見 颯真 | 2006年 6月 10日 |
スポーツ選手
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| 5 | 溝口 直温 | 1716年 6月 10日 | 歴史 |
| 6 | 藤巻 健史 | 1950年 6月 3日 |
政治家
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| 7 | 高市 由美 | 1967年 6月 10日 | 芸術家 |
| 8 | 一力 遼 | 1997年 6月 10日 | その他 |
| 9 | 飯田 家義 | 歴史 | |
| 10 | 稲並 昌幸 | 1904年 6月 10日 | 文学者 |
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1221年 | 承久の乱: 北条義時追討を命ずる後鳥羽上皇の院宣を受けて北条政子が鎌倉武士団に団結を訴える演説を行う。(承久3年5月19日) |
| 1886年 | ニュージーランドのタラウェラ山が大噴火。飛び散った噴石により153人が死亡。 |
| 1902年 | アメリカのA.キャラハンが、窓付き封筒の特許を取得。 |
| 1925年 | カナダで、長老派教会・メソジスト教会・会衆派教会の合併によりカナダ連合教会が発足。 |
| 1959年 | 国立西洋美術館で開館式。 |
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