【みんなの名字の由来】
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| 神足さん |
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天武天皇子孫の田中一族がつけた地名だと思います。
天武天皇の兄が田中足麻呂で、子孫同士を縁組みさせています。
田中多太麻呂の娘中臣豊子が桓武天皇に嫁ぎ皇子中臣王(平高望の祖父)と恒望王(清原令望の祖父)を産み、身内の伊予親王の冤罪で親子は亡くなり恒望王の遺児は同じ天武天皇子孫の小倉王(舎人親王子孫)に引き取られています。
田中多太麻呂と坂上苅田麻呂の子孫が身内の藤原乙叡(田中の跡取娘の婿。伊予親王の冤罪に巻き込まれ亡くなった)に嫁ぎ冤罪遺児の御井子は宮人田中氏となり嵯峨天皇に嫁ぎ源澄を産みます。
源澄の娘保子と、坂上田村麻呂(田中多太麻呂の孫)の子孫棟貞王が結婚し清和源氏につながります。清原と嵯峨源氏と清和源氏と桓武平氏は田中子孫です。清原は秋田に赴任したので、田中と乙叡の子孫が継いだ豊子の実家、田中出羽総本家とも縁組みしたと思います。
嵯峨天皇の別名が神野でした。神足は嵯峨天皇と田中足麻呂を意味し、田中と嵯峨天皇との子孫用についた地名です。
田中多太麻呂の娘と大伴家持が結婚し、娘を藤原訓儒麻呂の子に嫁がせ子孫が久須元子で田中の身内の藤原乙叡に嫁がせました。
藤原乙叡と藤原訓儒麻呂の子孫との縁組み子孫のために田中は地名を乙訓郡にしたと思います。その小字が神足です。
なので田中と乙叡の子孫の嵯峨源氏や乙叡子孫や嵯峨源氏と縁組みした清原からも名乗ったと思います。
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【投稿日】2026/03/10 09:00:12 【投稿者】妹子と天武天皇と坂上と鎌足の子孫・小町さん
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| 半谷さん |
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奈良時代に天武天皇曾孫の田中多太麻呂は小野竹良の娘との娘を身内の大伴家持に嫁がせて子孫が伴を名乗りました。田中の後継娘(田中と坂上苅田麻呂血筋の子)の婿が田中子孫の藤原乙叡で、乙叡には田中大伴子孫の久須元子や田中と藤原魚名の子孫藤原名子も嫁がせていました。
田中は藤原御楯の娘も妻にし孫が坂上田村麻呂で、坂上には東北で坂上母方先祖の藤原を名乗らせ、近江では先祖長谷王の谷を名乗らせました。
半谷は大伴の伴のパーツであり、谷は先祖長谷王の字であることから田中大伴の縁組み子孫のために田中が分与した土地だと思います。
常陸や武蔵も田中が開墾していたため関係者が名乗ったと思います。
桓武平氏の榛谷氏が半谷を名乗ったとのことですが、田中多太麻呂の娘田中吉備(のちに中臣豊子に改名)は桓武天皇妻で、中臣王(初代高望王、2代目高望王の祖父)と恒望王を産み親子で身内の伊予親王の冤罪に巻き込まれ亡くなりました。そのため宮中の系譜から消され無実と判明しても回復を忘れられたままです。それが引き金となり田中子孫の皇子らは源平となり宮中を飛び出しました。中臣王の遺児高見王は豊子の兄の孫の照玉姫に引き取られます。中臣王の孫が桓武平氏の祖、平高望です。中臣王が冤罪で桓武天皇から授かった高望王の名前を剥奪された悔しさから遺児の高見王は我が子に同じ名前高望とつけたのです。
中臣王の弟の恒望王は太宰府栄転を喜んでいた時に冤罪に巻き込まれ武蔵に左遷され武蔵に祀られました。
恒望王の遺児は身内の小倉王夫妻に引き取られ清原令望は孫です。
清原令望は秦の始皇帝の末裔秦氏と縁組みしました。
田中の先祖に木氏と長谷王がいるため、木と秦と谷をたすと榛谷になります。田中と秦の共有地につけた地名と思われ、恒望王の子孫らが名乗ったと思います。
清原令望は先祖地に赴任し各地で身内と縁組みしていますから、田中子孫の桓武平氏や嵯峨源氏や清和源氏とも縁組みしたと思います。
福島の岩代については山と石は田中先祖の字で、代は橘三千代からです。田中橘の共有地についた地名です。
桓武平氏高望の父親の高見王の妻が橘であり、坂上田村麻呂の先祖も橘三千代であり、さらに坂上は谷姓も名乗っていたこと、伴は坂上血筋でもあることから、桓武平氏の他に伴氏や坂上の子孫である清和源氏からも半谷を名乗った人はいると思います。
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【投稿日】2026/03/10 08:38:38 【投稿者】妹子と天武天皇と坂上と鎌足の子孫・小町さん
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| 高市さん |
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追加情報です。天武天皇の息子高市皇子の子が長屋王で同じ天武天皇孫の吉備内親王と結婚し、長屋王の娘円方女王と教勝を妻にしたのが田中王で田中足麻呂の孫です。天武天皇と田中足麻呂の兄弟は仲良くて延々とその子孫同士を縁組みさせています。田中王は長屋王の娘婿だったため長屋王の冤罪に巻き込まれ40年無官にされます。その回復のため孫田中多太麻呂は全国を開墾し納税し財政を立て直すことに貢献し田中王の官位が戻されました。高市を名乗った越智や橘との関係についてですが、天武天皇持統天皇夫妻に長く仕えた女官が県犬養三千代でした。その感謝で天皇から橘の名字をもらい橘三千代となり、天武天皇の先祖家一族である敏達天皇と小野系春日との子孫美努王と結婚させます。田中が宮城に千代(せんだい、のちの仙台)や関東に千葉、秋田に能代の地名にしたのも三千代の字からですし、橘は橙ということで子孫には坂上登子や田中澄の名前に登がつき、能登や登戸の地名も橘から来ています。
田中足麻呂の子孫と橘も縁組みを繰り返す仲良しの親戚となり、橘真都賀や橘嘉智子も田中子孫ですし、田中の娘中臣豊子(身内の橘真都賀の子孫伊予親王の冤罪に巻き込まれ皇子ふたりと兄と姉婿とともに亡くなります)の孫、高見王(中臣王の遺児)も橘から妻を娶りますし、橘の子孫藤原御楯の娘を田中多太麻呂が妻にし、孫が坂上田村麻呂です。というふうに天武天皇関係者は延々と縁組みします。田中と縁組みした橘にとっても高市は先祖の字であり先祖本拠地の地名でもあります。
さらに天武天皇の妻持統天皇の母親が越智媛でした。越智媛の名前を名字にしている越智氏にとっても先祖の字で、先祖の本拠地の地名高市を名乗ったのは納得です。
天武天皇と田中足麻呂の一族がつけた地名の高は、彼らの父親高向玄理を指します。
そのため桓武天皇も田中血筋の皇子に髙望王(平髙望の祖父)、皇孫に髙岳親王や髙枝王髙棟王と名づけました。そのため田中多太麻呂が奈良時代に開墾した東北関東東海道美濃北陸の地名には、よく髙の字がつきます。
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【投稿日】2026/03/10 07:52:43 【投稿者】妹子と天武天皇と坂上と鎌足の子孫・小町さん
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| 鳩村さん |
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神奈川県には現在はいません。現在私が確認できるところだと、兵庫県神戸市須磨区と、東京都練馬区です。
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【投稿日】2026/03/09 23:21:08 【投稿者】はとさん
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| 德永さん |
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神奈川県住まいです 旧書体の德永です
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【投稿日】2026/03/09 22:13:34 【投稿者】じゅんさん
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| 算用子さん |
青森県東津軽郡外ヶ浜町の算用師から発祥。 源義経が北海道に渡る為に馬が必要なので三頭の馬を入手した。この為、三厩(みんまや)の地名が生まれたとされる。その時易の大家から占いをしてもらい、三吉(さんよし)と出たので三頭の馬を授かり、後に蝦夷地へ渡る事が出来たので算用師が訛って三吉になったとの説もあり。 付近には義経寺あり。 サヨネという読み方はアイヌ語がルーツとする説もあり。
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【投稿日】2026/03/09 20:18:47 【投稿者】だいまるさん
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| 十八女さん |
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徳島県阿南市十八女町発祥。
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【投稿日】2026/03/09 20:02:19 【投稿者】だいまるさん
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| 淀川さん |
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天武天皇曾孫の田中多太麻呂が奈良時代に秋田の地名に淀川とつけています。
田中の嫁は藤原仲麻呂の血筋で、田中の娘婿は藤原乙叡(百済王明信の子)で藤原南家との縁組みでした。
坂上田村麻呂も田中の孫で藤原仲麻呂血筋の子でした。
彼ら藤原南家の先祖に安倍貞媛がおり、田中の藤原南家血筋の子孫の名前には貞の字をよくつけました。棟貞王とか貞純親王とか百済王仁貞とかも田中子孫です。貞を定と表記することもあり、田中子孫の源定(百済王慶命の子)や宇多天皇(定省親王)にも定がつきます。
淀は定にサンズイをつけたもの。田中の先祖天武天皇の別名浄御原の浄からパーツのサンズイをよく地名につけます。
川は田中の先祖石川宿禰から。
田中が藤原との縁組み子孫のために分与した土地につけた地名が淀川だと思います。
福岡や長野も奈良時代に田中が開墾しています。
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【投稿日】2026/03/09 18:12:58 【投稿者】妹子と天武天皇と坂上と鎌足の子孫・小町さん
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| 虫明さん |
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天武天皇の子孫田中浄足は漢詩人であり備前守でした。岡山を開墾し子孫が虫明の地名をつけたと思います。
浄足の息子が多太麻呂で、娘を藤原乙叡に嫁がせました。
乙叡の先祖に路虫麻呂がいて虫がつきます。また乙叡の母親は百済王明信で明がつきます。彼女は田中子孫で田中の先祖元明天皇と明帝の明をつけていました。田中の娘と藤原乙叡の縁組み子孫のために分与した土地につけた地名が虫明だと思います。
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【投稿日】2026/03/09 16:36:10 【投稿者】妹子と天武天皇と坂上と鎌足の子孫・小町さん
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| 鳥山さん |
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新田、里見、鳥山は奈良時代に天武天皇曾孫の田中多太麻呂(坂上田村麻呂の祖父)が開墾地につけた地名です。佐々木も田中一族がつけた地名です。先祖聖徳太子の孫佐々王が冤罪で悲しい亡くなり方をしたため弔うために佐々王の柵(城)という意味の佐々木(柵の略字)としたと思います。田中小野は聖徳太子の子孫ですから。冤罪死した先祖の供養みたいな地名を各地の城の近くにつけています。城も持てずに冤罪で亡くなった先祖にせめて地名だけでも城(柵)を与えたかったからでしょう。
田中小野の子孫の宇多天皇の皇子がここに住み宇多源氏佐々木を名乗りました。
新田は先祖新田部皇女から。里見は多太麻呂の先祖が黒麻呂、足麻呂、法麻呂と麻呂がつき、麻呂は万里とも書くため、その里と、田中の嫁小野竹良の娘の先祖厚見王の見です。田中の嫁弟も小野永見で見がつき、彼の娘と田中の孫の坂上田村麻呂を縁組みさせていますし、田中の娘中臣豊子の息子中臣王(平髙望の祖父)も小野永見の娘を妻にしていますので息子に高見王と名づけ見がつきます。
田中小野共有地を示すのが里見です。先祖が都をおいた飛鳥田中宮の田中家なので飛鳥の鳥、または田中の先祖蘇我馬子が飛鳥寺を建てたため飛鳥寺の鳥、そこに田中の先祖山下影比売の山を組み合わせたのが鳥山です。
田中と坂上苅田麻呂の子孫御井子が宮人田中氏を名乗り嵯峨天皇に嫁ぎ嵯峨源氏田中澄を産みます。
身内の純子内親王と結婚して田中保子が生まれます。
田中の孫坂上田村麻呂は田中の嫁弟小野永見の娘と結婚し春子が生まれ、春子を桓武天皇に嫁がせ葛井親王が生まれます。葛井親王を純子内親王の姉妹の斉子内親王と結婚させ、棟貞王が生まれ、彼と田中保子をいとこ同士で結婚させ娘を清和天皇に嫁がせ貞純親王が生まれ清和源氏につながります。
清和源氏は田中小野坂上の血がかなり濃い子孫です。
鳥山は清和源氏の先祖の字なので、その地名を名字に選んだと思います。
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【投稿日】2026/03/09 16:28:04 【投稿者】妹子と天武天皇と坂上と鎌足の子孫・小町さん
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