島津
【読み】しまづ,しまず,しまつ,つしま
【全国順位】
868位
【全国人数】
およそ21,100人
由来解説
島津さんの多い地域 TOP5
| 都道府県 | 人数 |
|---|---|
| 東京都 | およそ2,300人 |
| 神奈川県 | およそ1,900人 |
| 大阪府 | およそ1,600人 |
| 千葉県 | およそ1,500人 |
| 兵庫県 | およそ1,300人 |
| 市区町村 | 人数 |
|---|---|
| 山形県東置賜郡高畠町 | およそ370人 |
| 神奈川県平塚市 | およそ270人 |
| 兵庫県たつの市 | およそ260人 |
| 福岡県北九州市八幡西区 | およそ230人 |
| 新潟県長岡市 | およそ200人 |
島津さんの比率が多い地域 TOP5
| 都道府県 | 比率 |
|---|---|
| 山形県 | 0.05229% |
| 福井県 | 0.0336% |
| 新潟県 | 0.03226% |
| 山梨県 | 0.03076% |
| 広島県 | 0.02926% |
| 市区町村 | 比率 |
|---|---|
| 山形県東置賜郡高畠町 | 1.538% |
| 北海道中川郡中川町 | 0.881% |
| 宮城県刈田郡七ヶ宿町 | 0.835% |
| 宮崎県児湯郡西米良村 | 0.737% |
| 福井県三方上中郡若狭町 | 0.69% |
島津さん有名人ランキング TOP10
| 名前 | 生年月日 | ジャンル | 備考 |
|---|---|---|---|
| 島津 久宝 | 1852年 12月 22日 | 歴史 | 幕末の薩摩藩士、加治木島津家10代当主 |
| 島津 忠欽 | 1845年 12月 20日 | 政治家 | 貴族院議員、照国神社宮司、男爵玉里島津分家初代 |
| 島津 久治 | 1645年 12月 19日 | 歴史 | 江戸前期の薩摩藩士、垂水島津家7代当主 |
| 島津 久薫 | 1633年 12月 18日 | 歴史 | 江戸前期の薩摩藩士、加治木島津家2代当主 |
| 島津 忠朗 | 1616年 12月 15日 | 歴史 | 江戸前期の薩摩藩士、加治木島津家初代当主 |
| 島津 久幹 | 1904年 12月 8日 | 芸術家 | 加藤久幹 |
| 島津 忠麿 | 1877年 5月 4日 | 政治家 | 貴族院議員、伯爵佐土原島津家2代 |
| 島津 長丸 | 1871年 10月 31日 | 政治家 | 男爵宮之城島津家初代、宮之城家16代、貴族院議員 |
| 島津 久基 | 1891年 4月 16日 | 研究者 | 国文学者、花岡島津家出身 |
| 島津 豊久 | 1570年 7月 13日 | 歴史 | 織豊期の武将、島津氏家臣、島津家久長男 |
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| 島津さん みんなの名字の由来 |
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若狭島津氏は、鎌倉時代に島津忠久(島津氏高祖)の弟・津々見忠季(若狭忠季)より興る。 忠季は若狭守護を務めていたが、子孫は北条氏に所領と守護の座を奪われて衰退。嫡流は若狭を称していたが、南北朝時代に分裂して北朝方についた系統が南朝側の同族と区別するために所領があった三方郡から三方を称した。 室町時代は若狭守護の一色氏に従い、一色氏が山城守護および侍所所司に任じられると、守護代や所司代として中央において活躍した。若狭地方の地名を冠した津々見、若狭、三方、井崎などの苗字を名乗るが、若狭に残った七代目季村は、島津氏を名乗るに至る。 忠望の代に京都に移り、江戸時代初期に漢学者・島津崋山義張が出る。崋山の子孫は、阿波徳島藩庄屋になり、現在に至る。若狭・三方地方では、三方、井崎の苗字で庶流が現在も認められる。 応永13年(1406年)の小笠原長春の失脚によって三方範忠が若狭守護代に起用された。応永16年(1409年)、若狭国守護一色満範が没すると、相続争いがおきる。三方範忠は、長男の一色義範(のち義貫)を擁した。 永享12年(1440年)5月15日、大和国人の大和越智氏討伐のため出陣していた義貫は、6代将軍足利義教の命を受けた武田信栄に誅殺される。 この際、若狭国守護代・三方忠治と三方弾正は、最後まで奮戦したが、討死した(『師郷記』永享12年5月15日記)。引退していた範忠も翌日京都で討たれている。 武田信栄が若狭守護となり、6月29日に若狭国に入部したが、一色義貫誅殺の際、忠治から一太刀を受けており、これが原因で7月23日に死亡したと伝えられている。 また、義貫に仕えた三方一族に、三方修理亮が今富名又代官として記録されている。一色氏が若狭の守護を解任された後は、本拠を京都に移し、侍所の所司であった一色氏の下で所司代をつとめるなど、中央政界で活躍した。 |
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【投稿日】2025/11/30 14:55:06 【投稿者】匿名さん |
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江州島津氏 越前島津氏系の島津六郎左衛門尉忠頼(忠綱四男)の五男・左衛門尉頼昌は、近江国浅井郡町野郷地頭に任じられ、江州島津氏の祖となる。 直系子孫は菅浦に改姓、近江膳所藩庄屋・菅浦新四郎忠盛家に至る。庶流は島津姓を名乗り、現在に至る。 |
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【投稿日】2025/11/28 06:53:07 【投稿者】匿名さん |
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信濃島津氏について、 『島津家文書』306「信濃国太田庄相伝系図」には、承久の乱の恩賞として、島津忠久が、承久3年(1221年)5月8日、「幕府下知状」によって水内郡太田荘地頭職に補任された後、鎌倉末期までの太田荘(田畑三百四十町余)の荘園経営に関連した一族の系図が示されている。 荘園の領家は島津氏に縁の深い摂家近衛家であった。 「信濃国太田庄相伝系図」、嘉暦4年(1329年)3月の「北条高時下知状」によれば、幕府は輪番をもって、信濃国の御家人に諏訪大社の五月会・御射山の祭祀の役を勤めさせており、豊後前司忠久(島津氏高祖)、大隈前司忠時(薩州2代目)、彦三郎左衛門尉忠長(忠時孫)、弥三郎入道称阿頼祐(忠時孫)、五郎右衛門尉忠秀(越前島津氏忠綱曾孫)、左京進光忠(忠久3男忠直曾孫)らが祭祀の役を勤めたことが示される。 承元4年(1210年)、それまで善光寺の地頭であった長沼宗政が解任。窪寺氏や原氏、諏訪部氏、和田氏の四氏が奉行となった記録がある。太田荘は主に島津宗家と伊作家に分割相続された。 南北朝時代になると、興国3年/康永元年(1342年)大倉郷地頭職を巡って称名寺との間に所領を争い、長く続いた。 この時代には他の信濃国人からの侵害や守護からの干渉から守るため、薩摩から太田荘に土着する者が現れ、長沼郷に本拠を置いた島津刑部少輔はそのひとりである。 貞治4年/正平20年(1365年)島津太郎国忠は守護小笠原長基と合戦に至った。 元中4年/嘉慶元年(1387年)5月、室町幕府から任命された守護の斯波義種に抵抗する長沼(島津)太郎は、村上頼国や高梨頼高、小笠原清順ら国人領主たちと善光寺に挙兵した。平芝にあったとされる守護所を攻めて、麓の漆田原で合戦となった。 至徳4年(1387年)斯波氏の守護代である二宮氏泰は領家の東福寺海蔵院の意向を受け、島津氏の所領である石村南郷の年貢を差し押さえたため、同年8月には氏泰が占拠篭城していた横山城を国人領主たちが激戦の末攻め落とした。この後も敗走する市河氏らを追撃し、埴科郡の生仁城に転戦している。 応永6年(1399年)、信濃守護となった小笠原長秀に抵抗した島津国忠が小笠原方の赤沢氏や櫛置氏らと対立、水内郡石和田(長野市石渡)での抗争があったとされる。これが大塔合戦の前哨戦といわれている。 室町中期には、隣国の越後守護代を務める長尾氏に通じた、高梨氏が勢力を拡大、島津氏の所領を圧迫し始める。長尾為景と上杉定実の対立が激化すると、島津貞忠は井上氏・須田氏らとともに上杉方に与、長尾氏を後ろ盾とする高梨氏と対立した。 忠久以降、島津氏一族は太田荘の各郷の地頭職を補任、相伝した。このなかに「長沼家」「赤沼家」と称する支流が知られている。 長沼家と赤沼家の両家は、戦国時代を生き抜くため協力し、赤沼家が長沼家を頼り、両家とも上杉謙信に臣従、最後は米沢藩に仕官している。 『遊行・藤沢両上人御歴代系譜』によると、天文5年(1536年)に亡くなった時宗の遊行上人第26代他阿空達は、信濃島津氏の出身である。 同19年(1550年)には「伊作後胤信州」を名乗る者が薩摩国伊作城を訪れ、伊作家の系図を見て先祖の墓参をしている。 |
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【投稿日】2025/11/28 05:19:27 【投稿者】匿名さん |
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越前島津家(播磨島津氏)は、 承久3年(1221年)、島津忠久が、承久の乱の勲功賞として、越前国守護職に補せられ、その次男忠綱が守護代に任命されたことに始まる。 同時期、忠久の嫡男・忠時が、若狭国守護であったことから、島津氏は北陸においても大きな拠点を有していた(若狭島津氏)。 弘安2年(1279年)、忠綱の嫡男忠行は、播磨国下揖保荘(現兵庫県たつの市)地頭職に任ぜられ、同地に移住、以後同国の有力国衆として存続したため、播磨島津氏とも称される。 南北朝時代、7代忠兼が足利尊氏に属し、畿内を転戦し活躍。その模様は『越前島津家文書』(国の重要文化財・国立歴史民俗博物館蔵)に記される。 『越前島津家文書』には、15代忠長が戦死するところまでが記録されている。忠長は、守護赤松氏と浦上氏の抗争で赤松方に属して、天文3年(1534年)朝日山合戦にて戦死。 その後、下揖保庄および布施郷は、一時闕所となるが、忠長の嫡男・新九郎忠之が、守護赤松氏から下揖保庄および布施郷の地頭に任じられる。 忠之は、天正3年(1575年)、小寺政職と青山河原(現在の姫路市青山)で戦い、戦死する。この際、嬰児・義弘は、母に連れられ、立岡山城(石蜘城)から下揖保庄・上村(現在のたつの市・揖保上)の岸構居(『播磨鑑』)に移ったと伝えられる。その後帰農、郷士として、29代目は海軍大佐島津信夫に至る(『兵庫県大百科事典』)。 現在も、たつの市・揖保上には多くの島津姓がみられる。 一方薩摩では、元文2年(1737年)、22代薩摩藩主・島津継豊により、弟忠紀に越前家の名跡を継がせ、これを復興させた(越前島津氏播磨家22代・権兵衛忠義の時である)。 復興翌年の元文3年(1738年)に、薩摩藩により、龍野藩上村の越前島津氏の末裔・氏神・住居等の調査が行われた。 調査を命じたのは前藩主吉貴、調査担当は家老島津權左衛門であった。結果、権兵衛忠義は越前島津家一族と認められるも、正嫡か否かについては断定されず、調査は終了した(国宝『島津家文書』越前島津家由緒承合候日記全)。 復興に際し、大隅国始羅郡帖佐郷の脇元村・平松村・船津村・春花村と、薩摩国鹿児島郡吉田郷の東佐多浦村の一部を割いて、「触田村」とし、その5ヶ村を以って、越前の旧領名に因んだ重富郷と命名したことから、「重富家」とも称した。石高は1万4000石。 重富家は島津御一門家の筆頭格として位置づけられ、「国父」の尊称を得て薩摩藩主島津忠義を後見した島津久光(忠教)は、同家の養子となっていた時期がある。久光の子・珍彦の時に男爵となった。 初代忠綱の3男忠景(1241~1300)や、その子忠宗(同時代の宗家島津氏4代忠宗とは別人)・孫忠秀らは、歌人として活躍、十三代集に多くの詠歌をみることができる。 『系図纂要』、「島津系図」(『群書類従』)などでは、忠行ではなく、忠景の系統を越前島津氏の正統として扱っている。 忠景の子孫には薩摩国に土着した者が多い。 一方忠秀が信濃国赤沼郷に地頭職を得たことから、信濃国に住し、戦国時代には上杉氏に仕えた一族(赤沼家島津氏)もある。忠秀の庶子と伝える安芸守忠信(忠章)は、出家して祖海と号、子孫は越前に居住。 『太平記』巻第八に登場する「島津安芸前司」とはこの忠信のことであるという説がある(杉本雅人『越前島津氏-その事歴と系譜』)。現在、福井市生部町に「越前島津氏屋敷跡」があり、石碑が建てられている。 忠綱四男・六郎左衛門尉忠頼の5男・左衛門尉頼昌は、近江国浅井郡町野郷地頭に任じられ、江州島津氏の祖となる。 |
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【投稿日】2025/11/28 05:15:22 【投稿者】匿名さん |
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