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松平

【読み】まつだいら,まつひら,まつたいら,まつへい,しょうへい
【ローマ字】
【全国順位】 1,873位
【全国人数】 およそ8,000人

由来解説

徳川家などを輩出した現愛知県東部である三河国賀茂郡松平郷が起源(ルーツ)である。
清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏新田徳川家の一族。
異流も少しみられる。

徳川幕府の際、貢献度の高い大名や外様大名にも松平の姓を与えたこともあり、全国に多数みられる。現在、北海道東京都愛知県など全国に散布。

最終更新:2026/06/05 21:43:52  最終更新者:匿名


松平さんの多い地域 TOP5

都道府県人数
東京都 およそ1,200人
北海道 およそ790人
神奈川県 およそ790人
愛知県 およそ550人
大阪府 およそ530人
市区町村人数
石川県金沢市 およそ170人
岩手県奥州市 およそ110人
愛知県瀬戸市 およそ100人
富山県黒部市 およそ100人
愛媛県南宇和郡愛南町 およそ100人

松平さんの比率が多い地域 TOP5

都道府県比率
富山県 0.03298%
石川県 0.0286%
和歌山県 0.0208%
愛媛県 0.01857%
岩手県 0.01705%
市区町村比率
北海道雨竜郡雨竜町 1.484%
北海道古宇郡神恵内村 0.518%
愛媛県南宇和郡愛南町 0.456%
北海道沙流郡日高町 0.41%
北海道上川郡鷹栖町 0.321%
※詳細は地図またはリンクをクリック

松平さん有名人アクセスランキング TOP10

名前 生年月日 ジャンル 備考
松平 直平 1869年 6月 18日 政治家 子爵広瀬松平家初代、実業家、貴族院議員、広瀬松平家11代
松平 直義 1754年 6月 18日 歴史 出雲広瀬藩7代藩主、広瀬松平家7代、津山松平長孝次男
松平 康任 1780年 6月 20日 歴史 老中、石見浜田藩主、松井松平家8代、旗本松平康道長男
松平 親明 1785年 6月 17日 歴史 豊後杵築藩8代藩主、能見松平家14代
松平 忠馮 1771年 6月 18日 歴史 肥前島原藩2代藩主、深溝松平家12代、宇都宮松平忠恕六男
松平 勇雄 1907年 6月 14日 政治家 福島県知事、参議院議員、会津松平健雄次男、行政管理庁長官
松平 信敏 1851年 6月 22日 歴史 滝脇信敏、駿河小島藩11代藩主、上総桜井藩主
松平 忠功 1756年 6月 18日 歴史 伊勢桑名藩4代藩主、奥平松平家6代、紀州徳川宗将七男
松平 信発 1824年 6月 16日 歴史 上野吉井藩9代、鷹司松平家11代、津山松平維賢三男
松平 義比 1831年 6月 11日 歴史 美濃高須藩11代藩主、尾張徳川茂徳、一橋徳川茂栄
※上記は直近一週間のアクセス数Top10です。すべての松平さん有名人は以下から確認できます。

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【戦国武将・大名の家紋】


丸に桔梗

九つ目結

丸に三つ葵

会津三つ葵

星梅鉢

実梅鉢

重ね扇

三つ扇

片喰

五三桐

丸に釘抜き


九曜
松平さん みんなの名字の由来
松平康直病没前の天正15年(1587年)、徳川家康の命で摂津源氏の末裔の大河内正綱が、長沢松平家分家の松平正次の養子となる。この後は「大河内松平家」とも呼ぶ。

この松平正綱の甥が正綱の養子となり、知恵伊豆と謳われる老中・松平伊豆守信綱(武蔵国忍藩、そして川越藩主)となる。またその末裔から、小知恵伊豆と言われる老中・松平伊豆守信明(三河吉田藩主)も出す。大名を三家出し、旗本の家もあった。明治維新後、大河内松平家は全家が大河内姓に復している。
【投稿日】2026/05/20 17:04:21
【投稿者】匿名さん
長沢松平家(ながさわまつだいらけ)は、松平氏の庶流。十八松平のひとつ。

長沢城(三河国宝飯郡長沢)を本拠地としたため、長沢松平家と呼ばれた。

なお、摂津源氏とされる大河内氏から分家に養子として入った松平正綱が、大名として取り立てられただけでなく、正綱の後継として入嗣した甥の信綱が松平伊豆守家として大成させて本家より栄えたため、江戸時代の長沢松平家は、傍流の大河内松平家を指す場合が多いようである。

正綱も信綱も「長沢松平家の傍系へ入嗣した大河内氏」であり、長沢松平家の直系および傍系はこれとは別に存続している。維新後には傍系の一人松平正直が勲功により華族の男爵に叙せられた。

長沢松平家は松平宗家三代・松平信光の十一男(異説あり)親則を祖とする。本拠地は長沢城であった。この長沢城は現在の豊川市立長沢小学校(愛知県豊川市長沢町字午新)周辺。今では旧東海道拡張のための国道1号建設により、城の丘は南北に分断されている。

『寛政重修諸家譜』(『寛政譜』)によれば、初代親則は寛正2年10月1日(1461年11月3日)に25歳で没し、2代親益は寛正6年3月20日(1465年4月15日)に没しているので、中村孝也は、親益の代で父子相続が途絶えている可能性を指摘した。

平野明夫はそれを受け、豊田市の長沢にあった親則の系統が断絶した後、音羽町(現豊川市)の長沢を拠点とした別の系統が系譜上接合されたのではないかと推測する。

著名な人物には、徳川家康の従弟・松平康忠がある。康忠は戦功多く、徳川十六神将の一人にかぞえられている。

文禄2年(1593年)、康忠の子・松平康直が嗣子無きまま病没、家康の七男・松千代を養子に迎えて家名存続を図った。その松千代が夭折すると、今度は家康六男(松千代の同母兄)を新たな養子とした。これが松平忠輝である。ただし松千代を経由せず、忠輝が直接継いだとする資料もある。

忠輝を養子に迎えて繁栄を見込めたのは、しかしほんの僅かな期間に過ぎず、元和2年(1616年)、忠輝は異母兄の将軍・徳川秀忠により改易。長沢松平家の家名は断絶してしまう。

ただし忠輝の改易後も長沢松平家の血統は残っており、それでも江戸幕府はなかなかこの家を認めず、享保4年(1719年)にようやく長沢松平家と認知した。

天保5年(1834年)に十人扶持になり、やっと幕臣として禄が下された。幕末期の当主・松平忠敏(主税助)は浪士組の取締役になった。


傍系の松平清直は松平忠輝の付家老を務め、忠輝の改易後浪人するが、元和4年5月(1618年)に将軍家に召し出されて三河国宝飯郡形原に5、000石の所領を与えられ、交代寄合となったが、孫の信実の代に無嗣絶家。

清直の弟の松平正世も忠輝に仕えたが、忠輝改易後は越前松平家に召抱えられ、子孫は越前国福井藩重臣の松平主馬家として存続した。

同家の分家筋の松平正直は会津征伐において戦功をあげ、明治以降宮城県知事や熊本県知事、内務次官、貴族院勅撰議員などを歴任した功績で、華族(男爵)に叙されている。

正世 - 正詮 - 正恒 - 正村(正勝) - 正恒(再襲) - 正明(正般) - 正惟 - 正郷 - 正義 - 正方 - 正一

越後長岡藩牧野家の家老・今泉家も長沢松平家の庶流の一つであるとされている。
【投稿日】2026/05/20 17:03:58
【投稿者】匿名さん
松平郷松平家(まつだいらごうまつだいらけ)は、三河国豪族・松平氏の宗家。

別名に松平太郎左衛門家(まつだいらたろうざえもんけ)・挙母松平家(ころもまつだいらけ)。

松平氏発祥の地・加茂郡松平郷(現・愛知県豊田市松平町)を所領とし、明治維新まで代々この地を領した。


松平郷松平家の実質上の初代は、親氏流松平家の初代・松平親氏(14世紀後半頃)の長子とされる信広である(『松平太郎左衛門家16代信古年代覚書』では代数起算を親氏としている)。

信広の弟とされる松平氏三代・松平信光が、所領を三河国平野部に拡張して額田郡岩津郷(岡崎市岩津町)に居城を移したとき、松平氏の元来の所領である山間部の松平郷が、長子の信広に譲られたことにより、嫡子の信光系松平本宗家(安祥松平家または岩津松平家))から別家された信広系の松平郷松平家(挙母松平家)が成立した。

ただし庶宗家と呼ばれるのは、分家の一つ安祥松平家(徳川家)の成長後であり、元来の所領を受け継いだことから考えて、実際は名実共に嫡宗家と見られていたと考えられる。


信広は、親氏の岳父松平信重まで代々の松平郷領主が名乗ってきた「太郎左衛門尉」の通称を受け継ぎ、宗家として「松平太郎左衛門」を名乗ったとする。

故にこの家の別名は、「挙母松平家」とともに「松平太郎左衛門家」とも呼ばれる。信広以降の松平郷松平家の当主は、「松平太郎左衛門」を歴代の通称とし、代々松平郷を継承。

松平郷松平家は松平氏宗家にあたるものの、平野部に進出した岩津松平氏の流れが戦国大名に発展していくのに対して、松平郷のみを領する土豪から発展することはなかった。

16世紀には、近隣を領する松平氏の一派、大給松平家の影響下に入るほどで、当時三河の各地で繁栄していた松平氏一族を称していう「十八松平」にすら数え入れられていない。

その後当主は安祥松平家の松平親忠・松平清康・松平広忠に仕え、3代続けて戦死。家康に仕えた由重も戦で重傷を負い、その後は戦場に出ることなく松平郷に閑居した。

家康の関東移封後の松平郷は、田中吉政の領地となった。由重の子尚栄は慶長18年(1613年)に家康に拝謁し松平郷210石を与えられ、大坂の陣後には林添村230石を加増され、合計440石を領するようになった。

この際に課役を免除、歳首ごとに領地から江戸に参勤するよう命じられた(交代寄合)。

また子の信正は加茂郡内に200石を与えられたが、父に先立って没している。信正の弟信和は父の遺領を継ぎ、寄合となった。

江戸に屋敷は与えられず、江戸に入った際は、分家で江戸在府旗本の松平次郎左衛門家か、奥殿の大給松平氏の屋敷の居候扱いとされた。

細々と明治維新まで松平郷を領し続けて、家名は現代まで続いている。

昭和初期の当主、松平信博は映画音楽の作曲家として活躍した。2007年に死去した当主松平弘久は第一勧業銀行常務をつとめた。
【投稿日】2026/03/26 19:36:31
【投稿者】匿名さん
松平大膳家(まつだいらだいぜんけ)は、江戸時代の高松松平家御厄介(一門)。

初代藩主松平頼重七男頼芳を祖とする。代々の当主は志摩、大膳などの通称を名乗った。

頼煕の長男松平頼桓は、頼煕の後見を受けて4代藩主に就いた。また頼煕の家督は頼桓の弟である頼珍、次いで頼央が継いだが、この2人は相次いで徳島藩主蜂須賀家に養子入りしている(8代藩主宗鎮・9代藩主至央)。

彼ら3人の代で高松藩では頼芳の血筋は絶え(徳島藩では藩主一門の家系として残った)、藩主には水戸家の別の御連枝である守山松平家から松平頼恭が迎えられ、五男の頼昌が大膳家を継いだ。

以後、藩主家・大膳家とも頼恭の血筋で続いた(藩主は幕末には水戸本家から養子を迎えている)。

2002年に、高松市丸の内にある大膳家の中屋敷跡と上屋敷跡で発掘調査が行われた。
【投稿日】2026/03/07 19:39:15
【投稿者】匿名さん
愛知を奈良時代に開墾して地名をつけたのが聖徳太子末裔の田中王の孫であり、天武天皇の曾孫である田中多太麻呂(東海道節度副使)です。賀茂郡の小字が松平で、田中氏の子孫が賀茂や加茂や松平を名乗っています。
天武天皇の別名が浄御(み)原天皇。御原を三原というように三とも書きます。田中先祖星河女王や縁組み相手の先祖藤原河子に河がつきます。
田中(天武天皇子孫)と橘(天武天皇に長く仕えた女官が橘姓を賜った)の縁組みの子孫の橘真都賀(まつが)が藤原是公へ嫁ぎ吉子が生まれ桓武天皇に嫁ぎ伊予親王誕生。
田中多太麻呂の娘吉備(中臣豊子襲名)も桓武天皇へ嫁ぎ中臣王(平高望の祖父)を生み、伊予親王の侍従に。
田中の孫継子(豊子の姪)が平城天皇へ嫁ぎ生まれた内親王を伊予親王へ嫁がせました。田中の娘と婿藤原乙叡との娘平子を桓武天皇に嫁がせ生まれた伊都内親王は平城天皇の阿保親王に嫁ぎました。
継子が皇太子候補を産み、側室ライバルの藤原薬子から冤罪に巻き込まれ、伊予親王と吉子、中臣王、乙叡、豊子、継子の父豊国、中臣王の弟恒望(清原令望の祖父)も亡くなりました。
中臣王の孫の平高望がこの冤罪のしがらみで理不尽な待遇をされ悔しさから桓武平氏を興し、茂世王(藤原河子の子孫)の娘と結婚。

天武天皇の三、藤原河子と星河女王の河で三河、橘真都賀の賀と乙叡の先祖加須利王と高望の嫁父の茂世王の茂の組み合わせで賀茂や加茂となり、田中の先祖木氏と藤原是公の公の字を組み合わせると松、田中の先祖孝昭天皇の別名が観松彦~~で松がつき、橘真都賀(まつが)の『まつ』でもあり。乙叡の先祖真平王と乙叡の娘平子と継子の夫の平城天皇と桓武平氏にはみな共通の平がつくので合わせて松平です。ちなみに田中氏の平城時代の菩提寺は平松にありました。逆バージョンもあります。
日本の地名に松竹梅を使ったのは田中氏です。田中の孫は嵯峨天皇に嫁ぎ、その子孫田中保子の娘が清和天皇に嫁ぎ清和源氏につながります。桓武平氏と清和源氏は田中子孫同士、仲良く縁組みした時代もありました。
田中の先祖新田部皇女から新田、田中先祖の聖徳太子と石川宿禰から徳川の地名もつけてあり、松平を名乗ったのは田中関係者です。
【投稿日】2025/06/04 07:20:53
【投稿者】小町さん
私の代の、松平藩主。
【投稿日】2025/04/24 21:32:17
【投稿者】かんちゃんさん
越智松平家の家祖清武は、甲府藩主徳川綱重(甲府徳川家)次男であり、江戸幕府6代将軍徳川家宣の弟に当たる。
甲府藩士越智喜清の養子として育てられ、養父の跡を継いで甲府藩士として実兄の藩主徳川綱豊(徳川家宣)に仕えていたが、宝永元年(1704年)綱豊が名を家宣と改め、5代将軍徳川綱吉養子になった際、旗本に登用。以後加増を繰り返され、宝永4年(1707年)には松平の姓を与えられ、上野国館林藩2万4000石の親藩大名に取り立てられる。

家宣が6代将軍となった後の宝永7年(1710年)に1万石加増、正徳2年(1712年)には家宣の遺言により2万石の加増があり都合5万4000石となった。

武元の代に陸奥国棚倉藩へ移封後、再度館林に戻される。斉厚の代の天保7年(1836年)に石見国浜田藩に移封。

幕末の浜田藩は第2次長州征伐に従軍したものの、長州藩軍に返り討ちにされ浜田城へ撤退、長州藩軍に追撃されると浜田城を自焼、同じく親藩の雲州松平家を頼って松江藩へ逃れ、浜田は長州軍の占領下に置かれたため帰還不可能になり、慶応3年(1867年)には浜田藩の飛地領だった美作国鶴田に入り、ここに陣屋を設置、飛地(約8000石)に加えて、15代将軍徳川慶喜より他の地から2万石が与えられて都合2万7800石の鶴田藩を立藩するも、幕府が崩壊。
鳥羽・伏見の戦いで再び敗北したが、家老尾関当遵の切腹で鶴田藩存続は許され、版籍奉還により武聡は鶴田藩知事を務めた。息子の松平武修が子爵を叙される。
【投稿日】2025/02/10 00:03:29
【投稿者】匿名さん
田中氏の先祖の蘇我氏は百済の木氏の娘と縁組みしています。田中氏が橘氏と縁組みして娘の橘真都我(まつが)を藤原是公に嫁がせました。
木氏の木と是公の公を組み合わせた字が松で、真都我のマツでもあります。そのため田中氏は地名に松田、松川、松井、松本など松を多用しました。平は田中の娘が桓武天皇に嫁ぎ桓武平氏が子孫にいることや田中氏は百済王氏と縁組みし、百済王氏の先祖に真平王がいるため平の字も地名に多用しています。桓武平氏や徳川など清和源氏の先祖にも百済王氏がいます。
【投稿日】2025/01/30 12:48:42
【投稿者】小町さん
松井松平家は、三河国幡豆郡発祥の三河松平氏が、家康に仕えた功より松平姓を許されたことにより松井忠次が松平康親を称したことにはじまり、嫡子松平康重は父の遺志を継ぎ、北条氏降伏後天正18年(1590年)、家康関東移封に伴って武蔵国私市藩2万石に封じられ、常陸笠間藩3万石に転じるなど有力譜代大名として知られたが、以後この系統は各地を転々として丹波国篠山藩、和泉国岸和田藩、石見国浜田藩等幕末までに十余度も支配地が替わった。12代康英の時に武蔵川越藩にて維新を迎え、その子康義は子爵を叙され、松井姓に復した。
【投稿日】2024/04/21 12:36:12
【投稿者】匿名さん
清和源氏(常陸源氏)佐竹氏の分家山入佐竹家(山入氏)はさらに二次的庶子家を分流させた【小野田氏】【国安氏】【高柿氏】【松平氏】などである。
【投稿日】2023/06/28 14:47:07
【投稿者】テッシーさん
【松平氏】は、清和源氏義重(新田義重)流。松平親氏の子泰親が松平氏、広親が酒井氏となり松平家康の時、徳川氏となる。よって松平氏、酒井氏、徳川氏は同族。
【投稿日】2022/08/19 22:53:48
【投稿者】てっちゃんさん
みんなの名字の由来 投稿
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松平さん みんなの家紋のはなし

杵築笹
【都道府県】愛知県

杵築笹(さつき ざさ) 別称「五葉雪笹」・「変わり雪持ち笹」・「能見笹」などと言われる。 豊後国杵築藩(現・大分県杵築市)を治めた藩主家で明治以降に華族(子爵)に列せられた「 能見松平家(苗字は松平) 」の家紋(定紋)。

【投稿日】2024/06/12 09:56:44 【投稿者】長岡さん


花菱
【都道府県】茨城県

清和源氏(常陸源氏)【佐竹氏族の祖】【山入佐竹家(山入氏)】【松平氏】の祖の【新羅三郎義光】『手島義光』の家紋。

【投稿日】2023/06/29 16:13:55 【投稿者】伊勢の悪源太さん


丸に蔦
【都道府県】東京都

家紋を調べています🎵出身地不明‼️

【投稿日】2020/08/08 15:11:58 【投稿者】修さん


杵築き笹
【都道府県】大分県

豊後国(大分県)杵築藩(きつきはん)の藩主、能見松平家が使用していたため、「杵築笹」と呼ばれている。

「変わり雪持ち笹」ともいう。

『寛政重脩諸家譜』には、「飯笹」と書かれている。(一般的な「雪持ち笹」と区別するためか?)

【投稿日】2018/09/19 09:41:10 【投稿者】ちば子さん

 

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