徳川
【読み】とくがわ,とくかわ,とくせん
【ローマ字】
【全国順位】
5,936位
【全国人数】
およそ1,600人
由来解説
最終更新:2026/06/30 02:57:15 最終更新者:匿名
徳川さんの多い地域 TOP5
| 都道府県 | 人数 |
|---|---|
| 大阪府 | およそ170人 |
| 広島県 | およそ150人 |
| 佐賀県 | およそ130人 |
| 東京都 | およそ130人 |
| 福岡県 | およそ100人 |
| 市区町村 | 人数 |
|---|---|
| 佐賀県佐賀市 | およそ80人 |
| 広島県東広島市 | およそ50人 |
| 島根県浜田市 | およそ40人 |
| 大阪府大阪市生野区 | およそ30人 |
| 沖縄県南城市 | およそ30人 |
徳川さんの比率が多い地域 TOP5
| 都道府県 | 比率 |
|---|---|
| 佐賀県 | 0.01631% |
| 徳島県 | 0.00752% |
| 島根県 | 0.00684% |
| 広島県 | 0.00556% |
| 富山県 | 0.00544% |
| 市区町村 | 比率 |
|---|---|
| 北海道紋別郡西興部村 | 0.405% |
| 高知県幡多郡大月町 | 0.138% |
| 山口県大島郡周防大島町 | 0.115% |
| 愛媛県南宇和郡愛南町 | 0.091% |
| 沖縄県南城市 | 0.077% |
徳川さん有名人アクセスランキング TOP10
| 名前 | 生年月日 | ジャンル | 備考 |
|---|---|---|---|
| 徳川 義宜 | 1858年 7月 4日 | 歴史 | 尾張藩16代藩主、尾張藩知事、尾張徳川慶勝三男 |
| 徳川 恵理 | 1984年 1月 22日 | スポーツ選手 | 元バレーボール選手 |
| 徳川 親子 | 1846年 7月 3日 | 歴史 | 和宮、仁孝天皇第8皇女、静寛院宮、徳川家茂御台所 |
| 徳川 家広 | 1965年 2月 7日 | 文学者 | 徳川宗家 19代当主 |
| 徳川 喜翰 | 1897年 1月 31日 | 政治家 | 貴族院議員、男爵徳川厚家(宗家分家)2代 |
| 徳川 光圀 | 1628年 7月 11日 | 歴史 | 常陸水戸藩2代藩主、水戸黄門、水戸徳川家 |
| 徳川 大五郎 | 1709年 2月 1日 | 歴史 | 徳川家宣三男 |
| 徳川 信治 | 研究者 | 法学博士、立命館大学教授 | |
| 徳川 綱吉 | 1646年 2月 23日 | 歴史 | 江戸幕府第5代征夷大将軍、生類憐れみの令、館林徳川家初代 |
| 徳川 早知子 | 研究者 | 文学修士、滋賀医科大学教授 |
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【戦国武将・大名の家紋】
| 徳川さん みんなの名字の由来 |
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館林徳川家(たてばやしとくがわけ)は、江戸時代前期に存在した大名家。館林宰相家、館林家とも。 上野国館林藩主家(館林城主)。石高は25万石。江戸幕府3代将軍・徳川家光の四男・徳川綱吉を初代とする親藩で、綱吉の子・徳松までの2代続いた。官位が正三位・右馬頭(徳松は夭折のため無官)であったことから、左馬頭に任じられた甲府徳川家と並び、御両典(「典」は典厩、すなわち左馬頭の唐名)として、御三家の尾張徳川家、紀州徳川家に次ぎ、水戸徳川家をやや上回る、高い家格をもっていた。 寛文元年(1661年)8月、綱吉が上野館林藩主となり、25万石を拝領したのに始まる。 1680年5月、綱吉は嗣子のない兄の4代将軍・家綱の養嗣子となって江戸城二の丸に入ったため、藩主には子の徳松が就いた。 同月家綱が死去して綱吉が将軍となり、綱吉の将軍就任に反対した大老・酒井忠清が失脚し、徳松が館林藩主のまま綱吉の世子と定められ、江戸城西の丸に入った。 しかし徳松は天和3年(1683年)閏5月28日に4歳で夭折、館林藩は廃藩となり、藩領は幕府直轄領に編入されて館林城も破却、館林徳川家は2代で廃絶した。 寛文3年(1663年)4年頃の主な家臣は以下の通り。 年寄衆(家老) 室賀正俊(下総守) - 6000石。 曽我包助(伊賀守) - 5000石。 本庄道芳(宮内少輔) - 4000石。綱吉生母・桂昌院の異母兄 黒田用綱(信濃守) - 3000石。 杉浦政清(大隅守) - 3000石。 奏者衆 牧野成貞(兵部) - 2500石。 館林城代 大久保忠辰(越中守) - 3000石。 その他 柳沢安忠(刑部左衛門) - 165石。勘定頭。柳沢吉保の父。 その後、綱吉が甲府家の綱豊(後の徳川家宣)を世子に定め、家宣が将軍を継いだことで甲府家も将軍家に統合され、御両典は消滅した。 |
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【投稿日】2026/06/15 10:03:38 【投稿者】匿名さん |
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駿河徳川家(するがとくがわけ)は、駿河国・遠江国・甲斐国を治めた徳川氏の支系の一つ。駿河大納言家とも。 江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の三男・忠長を家祖とする。忠長は元和2年(あるいは元和4年(1618年))9月に甲府藩23万8000石を拝領、(『甲斐国志』による)、のち信濃国の小諸藩も併合され領地に加えられた。 寛永元年(1624年)7月には駿河国と遠江国の一部(掛川藩領)を加増、駿遠甲の計55万石を領有し、駿河徳川家を創設した。 なおその際に小諸藩領は領地から外されている(後に松平憲良が入封)。しかし忠長は、後に不行跡を理由として大御所秀忠から蟄居を命ぜられ、秀忠の死後には兄の3代将軍・家光によって改易、さらに高崎に幽閉された後に自刃したため、駿河徳川家はわずか1代で断絶した。 |
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【投稿日】2026/06/01 17:49:42 【投稿者】匿名さん |
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一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)は、清和源氏新田氏支流と称する徳川宗家の分家にあたる、武家・華族。 江戸時代中期に御三卿の一家として創設され、単に一橋家とも呼んだ。維新後一橋藩を維新立藩し、廃藩を経て伯爵家に列せられた。 8代将軍吉宗の四男宗尹を家祖とする。 宗尹は享保20年(1735年)の元服の際、非嫡流ながら徳川姓を許され、元文2年(1737年)には合力米2万俵を与えられ、同5年(1740年)に江戸城一橋門内に屋敷を拝領するとともに、合力米1万俵を加増されて都合3万俵となった。 屋敷は一橋屋形と称されたため「一橋家」と呼ばれるようになった。 さらに延享3年(1746年)には兄(吉宗の次男)の田安徳川家初代当主宗武とともに、播磨国・和泉国・甲斐国・武蔵国・下総国・下野国のうち10万石の賄料を給された。 一橋徳川家は田安徳川家、清水徳川家(9代将軍家重の次男重好を祖とする)とともに「三卿」もしくは「御三卿」と呼ばれた。御三卿は江戸幕府において御三家に準ずる家格を与えられ、御三家とともに将軍家の血統保持の役目を担った。 ただし御三家のような分家独立した大名家ではなく、江戸城中に住んで「将軍の家族」としての扱いを受けた。 領地も幕府領から名目的に割かれているのみで、支配のための藩を持たず、10万石はあくまで賄料とされた。家老以下の主要家臣も幕臣から派遣されており、彼らは老中支配に属する。 御三卿が独自に抱える「抱入」家臣もあったが、上級役職へ登るのは困難で、幕臣となるのも極めて例外的であった。 2代治済は、四男家斉を11代将軍にしたため、幕政の実権を掌握、田沼意次一派の粛清と松平定信の老中登用を推し進めた。 江戸期の一橋家当主の極位極官は従三位・権中納言だったが、治済のみ将軍の実父であったことにより、はるかに超える従一位・准大臣という異例の高位に登っており、死後に太政大臣が追贈されている。 弘化4年(1847年)、水戸徳川家から、部屋住みながら若年の当主慶篤に次ぐ控えの立場であった徳川慶喜が一橋家へ養子に入った。それまで御三卿の家の子や当主自身が御三家を相続する例はあったが、その逆は異例であった。 13代将軍家定の後継をめぐる将軍継嗣問題が持ち上がると、慶喜を推す勢力(一橋派)と、紀州藩主徳川慶福を推す勢力(南紀派)が対立するが、南紀派・井伊直弼が大老に就任すると慶福が後継に決定、のちに慶福は家茂と改名し、14代将軍になった。 その後も直弼は慶喜と対立、安政の大獄の際には隠居謹慎が慶喜に命じられた。 文久2年(1862年)に慶喜が謹慎を解かれ復帰するまでの間、一橋家は当主不在になっていた。 同年、慶喜は将軍後見職に任じられ、以後は一橋家の家臣たちも率いて幕政に直接関わっていく。また、元治元年(1864年)に、将軍後見職に代わって禁裏御守衛総督に任じられ、京都に滞在して京都守護職の会津藩主松平容保、その実弟で京都所司代の桑名藩主松平定敬と提携、江戸の幕閣から半ば独立した政治勢力(一会桑政権)を形成していく。 慶応2年(1866年)に家茂が死去、慶喜が将軍家を相続すると、同じく水戸系の血筋で、御連枝(分家)高須松平家当主を経て尾張徳川家の当主を一時務めるも隠居の身となっていた徳川茂栄(尾張時代の名は茂徳)が、一橋家を相続したが、間もなく明治維新を迎えた。 慶応4年(1868年)1月の鳥羽伏見の戦いの結果、畿内以西における徳川幕府の支配体制は崩壊、新政府の支配体制が確立された。そのため大半が畿内以西にあった一橋家の領地も、安芸国広島藩主浅野家など最寄りの官軍領主たちの預かり地となった。 領地を失った茂栄は、同年3月と閏4月に駿府の東征大総督府へ赴き、慶喜や徳川一門に寛大な処分が下されるよう嘆願を繰り返した。 結果、江戸城無血開城後の同年5月、茂栄に徳川宗家から独立して10万石の一橋藩を維新立藩、その藩主となることが許された。 これを受けて茂栄は、翌6月に一橋家の領地と陣屋の返還を政府に願い出、7月にも返還が認められた。 明治2年(1869年)3月、一橋藩は他藩と同様に版籍奉還を行ったが、この際に政府から以後当主は東京に住むこと、家禄として従来の年貢・雑税の一割を与えること(3805石)、家臣は家令・家扶・家従・召使など相当数だけを残して他は地方官属とすることを命じられた。 藩の現米(租税収入)の1割をもって藩主の個人財産たる家禄とするのは全ての藩に共通だったが、他の藩主が版籍奉還後も知藩事に任命されたのに対し、田安・一橋両家にはその沙汰は下らなかった。 9月に茂栄は知藩事任命を政府に願い出、また翌年3月まで、一橋家家臣たちが連名で茂栄への知藩事任命の請願を繰り返しているが、結局茂栄への任命はなく、明治3年(1870年)1月には各地に点在していた一橋藩領がそれぞれの近隣の県に合併され、他藩に先駆けて廃藩となった。 茂栄は、知藩事としては認められなかったが、華族の地位は他の大名と同様、認められた。 明治3年(1870年)閏10月に家禄3805石を支給される。明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄の代わりに支給された金禄公債の額は14万3641円60銭6厘(華族受給者中47位)。 明治前期の茂栄の本邸は、東京府本所区本所錦糸町にあった。 茂栄は明治17年(1884年)3月に死去、嫡男の達道が家督を相続した。 同年7月7日に華族令が施行されて華族が五爵制となり、叙爵内規において御三卿の各家当主は伯爵と定められたため、達道も伯爵に列せられた。 達道が昭和9年(1934年)に隠居した後、水戸家の徳川篤敬侯爵の次男宗敬が養子として爵位と家督を相続した。宗敬の代の昭和前期に、一橋徳川伯爵家の邸宅は東京市小石川区林町にあった。昭和5年には同地に建築家堀口捨己の設計から成る昭和モダン的な邸宅を建設している。 宗敬は貴族院伯爵議員に当選して務め、戦後に最後の貴族院副議長に就任している。貴族院が廃止された後も参議院議員に当選して議席を維持、サンフランシスコ講和条約調印の際、日本側全権委員に加わった。その後伊勢神宮の大宮司を務めた。 また、宗敬が後年に茨城県へ寄贈した家伝の資料や文化財など約6,000件は、茨城県立歴史館内の一橋徳川家記念室(1987年(昭和62年)10月開館)にて展示、公開されている。 |
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【投稿日】2026/05/31 19:57:39 【投稿者】匿名さん |
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田安徳川家(たやすとくがわけ)は、清和源氏新田氏支流と称する徳川宗家分家にあたる、武家・華族。 江戸時代中期に御三卿一家として創設され、単に田安家とも呼ばれた。江戸期には独立した大名家ではなかったが、明治維新直後に田安藩を維新立藩し、廃藩を経て伯爵家。 江戸幕府第8代将軍吉宗次男宗武を家祖とする。宗武は享保14年(1729年)に非嫡流ながら徳川姓を許され、合力米3万俵を与えられる。 享保16年(1731年)には江戸城田安門内に屋敷を与えられ、田安屋形と称されたため「田安家」と呼ばれる。 延享3年(1746年)には摂津国・和泉国・播磨国・甲斐国・武蔵国・下総国のうちに10万石の賄料を給され、それ以前の合力米は差し止め。 田安徳川家は、宗武の弟(吉宗四男)の宗尹を祖とする一橋徳川家、9代将軍家重の次男重好を祖とする清水徳川家とともに「三卿」もしくは「御三卿」と呼ばれた。御三卿は江戸幕府において御三家に準ずる家格を与えられ、御三家とともに将軍家の血統保持の役目を担う。 ただし御三家のような分家独立した大名家ではなく、江戸城中に住んで「将軍の家族」としての扱いであった(部屋住み)。 領地も幕府領から名目的に割かれているだけで、支配のための藩を持たず10万石というのはあくまで賄料とみなされる。 家老以下の主要家臣も幕臣から派遣されており、彼らは老中支配に属する。御三卿が独自に抱える「抱入」家臣もあったが、上級役職へ登るのは困難で、幕臣となるのも極めて例外的であった。 2代治察の後、15年ほど当主不在の時期があり、一橋家から斉匡が養子相続。その後斉荘(11代将軍家斉十一男)、慶頼(斉匡九男。維新後再家督)、寿千代(慶頼長男。夭折)、亀之助(慶頼三男。維新後徳川宗家を継いで徳川家達を名乗る)と、吉宗直系を維持して明治維新を迎える。 寛政の改革を推進した老中松平定信(久松松平家へ養子)は、宗武七男であり、幕末の福井藩主で維新に功があった松平春嶽(慶永、越前松平家へ養子)は斉匡八男にあたる。 鳥羽伏見の戦いに旧幕府軍が惨敗した後、慶応4年(1868年)1月10日、幕府代官支配地、田安・一橋徳川領、京都所司代・大阪城代の所領、賊徒に与した旗本の所領は収公される旨が布告、田安徳川家領地も最寄りの官軍藩の預かり地となった。 江戸に逃亡した最後の将軍徳川慶喜が、江戸城を退去して上野寛永寺で謹慎に入ると、田安家元当主で4歳の当主亀之助の父である慶頼(文久3年(1863年)に隠居し、以後実子を当主に立てて後見していた)が代わって江戸城主となった。 4月4日には明治天皇勅使橋本実梁が、西郷隆盛以下官軍参謀60余人を従えて江戸城に入城、慶頼が出迎え、4月11日をもって徳川家の江戸城からの退去、慶喜の死一等を減じ水戸藩での謹慎を命じる勅命を拝受した。 慶頼は、期日通り4月11日、江戸城の官軍への引き渡しを行った。 江戸城開城後の同年閏4月29日、亀之助は謹慎中の慶喜に代わって徳川宗家を相続することを命じられ、徳川家達と改名、また静岡藩主に任じられた。当主不在となった田安家は、5月24日に慶頼が再家督。 7月25日に田安・一橋両家は徳川宗家から独立した藩屏に列せられ、慶頼も没収されていた田安家の旧領の返還を許され、10万石の田安藩を維新立藩。 田安領のうち甲斐国所領は、貢租金納化されていたが、同地では江戸期より長きにわたって苛酷な取り立てが行われていたため、明治2年(1869年)に田安家支配を否定し天領(甲府県)への編入を求める一揆が発生した。 これがきっかけで翌明治3年(1870年)1月には田安家の版籍奉還決定が触出され、同年4月27日をもって田安藩は他藩に先駆けての廃藩となる。 各地に点在する田安藩領は最寄りの県に合併されたため、慶頼が知藩事に任命されることはなかった。 慶頼は知藩事としては認められなかったが、華族の地位は他の大名と同様認められた。また明治3年(1870年)3月に他の大名と同様、藩の現米の1割(田安家の場合は3148石)を家禄として支給。 明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄の代わりに支給された金禄公債の額は12万3592円93銭7厘(華族受給者中59位)。慶頼は同9年に死去し、正二位を追贈された。 慶頼の死後は四男達孝(宗家を継いだ家達の弟)が家督を相続した。明治前期の達孝の本邸は、東京府芝区三田綱町にあった。当時の家扶は久留栄であった。 明治17年(1884年)7月7日に華族令が施行されて華族が五爵制、叙爵内規において御三卿の各家当主は伯爵と定められたため、達孝も伯爵に列せられる。達孝は貴族院伯爵議員に当選して務めた他、侍従長、日本弘道会長などを歴任、東京府多額納税者でもあった。旧蔵品の一部は『徳川将軍家御三家御三卿旧蔵品総覧』(宮帯出版社)に編集・収録されている。勲位は勲一等。 田安徳川伯爵家の邸宅は、昭和前期も東京市芝区三田綱町にあった。 達孝が昭和16年(1941年)に死去した後は、嫡男の達成が爵位と家督を相続した。達成は海軍技術大佐だった。 |
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【投稿日】2026/04/01 22:37:19 【投稿者】匿名さん |
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清水徳川家(しみずとくがわけ)は、徳川将軍家一門である御三卿。単に清水家とも言う。 清水徳川家は江戸幕府9代将軍家重の次男重好を家祖とし、徳川将軍家に後嗣がないときは御三卿の他の2家とともに後嗣を出す資格を有した。 ただし清水家の出身で徳川将軍家を継いだ人物はいない。 家格は御三家に次ぎ、石高は10万石。家名の由来となった屋敷地は、江戸城清水門内で田安邸の東、現在の北の丸公園・日本武道館付近にあった。 維新後は元の下屋敷の一つであった甘泉園(東京都新宿区西早稲田)に邸宅を構えていた。 なお御三卿は、いずれも独立した別個の「家」ではなく、「将軍家(徳川宗家)の家族」、いわば「部屋住み」として認識されていた。 したがって領地は幕府領から名目的に割かれているのみで、支配のための藩は持たず、家臣団も少人数の出向者(主に旗本、他に当主生家の家中など)で構成されていた。 清水家は実子のなかった初代の重好以来、維新期を越えて大正13年(1924年)まで実子による相続が皆無であり、重好を含めて江戸時代を通じ、将軍世子(家治、家慶)の弟ないし将軍(慶喜)の弟が幼少で当主に立てられている。 加えて御三家に転出した当主が相次いだこともあって、一時的な断絶を繰り返しており御三卿ではもちろん、徳川・松平一族でも有数の出入りが激しい家でもある。 重好は宝暦3年(1753年)に賄料3万俵を与えられ、宝暦7年(1757年)に御守(家老)2名が付けられ、宝暦8年(1758年)に清水門内に邸地を与えられた。 宝暦9年(1759年)、元服して宮内卿を称し、賄料1万5千俵を加増されて屋形に移った。 宝暦12年(1762年)、新規に賄料領知10万石を武蔵・上総・下総・甲斐・大和・和泉・播磨の7か国に与えられた。 重好は第10代将軍となった異母兄の徳川家治と、当初は良好な関係を保っていたが、家治嫡男であった家基の死後には、最近親だったにもかかわらず実子がいない等の理由により将軍後継からは外され、天明6年(1786年)の家治の死後は一橋治済の子家斉が第11代将軍となった。 寛政7年(1795年)の重好死去の際、嗣子なく当主は空席、所領・家屋敷・家臣は一時的に幕府に収公されている。 これは、同じ御三卿である他の2家(田安家・一橋家)が、空席の場合は明屋敷となるも、それら組織が存続されたことと比して異例であった。 清水家はその後、寛政10年(1798年)に将軍徳川家斉の幼い息子敦之助を当主として再興される。 敦之助は清水屋敷へ移ることのないまま翌年に夭逝するが、子沢山であった家斉はその後も30年ほどの間に斉順・斉明・斉彊と、次々に庶子を清水家当主に据えた。このうち斉順と斉彊は清水家を出て紀伊徳川家を継ぎ、斉明は夭逝。 清水家は弘化3年(1846年)から長らく明屋敷となる。 その間、安政4年(1857年)には講武所拡張のために清水家改易計画が出された(最終的には田安家の反対で中止)。 また、安政5年(1858年)には井伊直弼が南紀派の勢力拡大を狙い、当時隠居していた元津山藩主斉民(家斉の十五男で斉明の弟・斉彊の兄)に清水家を継がせようと働きかけたが実現せず、結局20年にわたり当主不在が続くこととなった。 幕末の慶応2年(1866年)、15代将軍徳川慶喜の弟で水戸徳川家出身の昭武が江戸時代最後の清水家当主となった。慶喜は、パリ万国博覧会への使節の派遣に当たって昭武を名代に任じ、その便宜として清水家を継がせたのである(将軍舎弟としての格式に加え、形の上で水戸家から離され同家への配慮の必要が薄れる)。 昭武は当時実子のなかった慶喜から、自身の後継者候補とも目されていた。 なおその直前には、14代将軍家茂の内意により元尾張藩主の茂栄が清水家を継ぐ予定だったが、将軍に就任した慶喜の意向で昭武が清水家を、茂栄が慶喜転出後の一橋家をそれぞれ相続した。 渡仏した昭武は、幕府代表として対ヨーロッパ外交に努め、また万博閉幕後もフランスに滞在して勉学にも励んだが、その間に日本では大政奉還と明治政府樹立、さらに長兄の水戸藩主徳川慶篤の死が続いた。 昭武は明治元年(1868年)に帰国すると、水戸家家督を継ぎ、そのため清水家はまたも当主不在となった。 そうした事情もあって、御三卿の他の2家が維新後に一時とはいえ田安藩・一橋藩を立藩したのと異なり、「清水藩」は立藩しなかった。 なお、一方でその時期の清水邸は、将軍徳川家茂の御台所・和宮の文久元年(1861年)の降嫁準備と、慶応4年(1868年)の江戸城の明け渡し後の住居として活用されていた(前者時は明屋敷、後者時は当主渡欧中で不在)。 明治3年(1870年)2月、昭武の甥(慶篤の次男)篤守が新たに清水家当主となって家禄2500石を支給され、華族に列した。 この時、津山松平家の斉民・康民親子が当主候補に挙がったが(斉民は2度目)、いずれも当人が辞退している。 明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄の代わりに支給された金禄公債の額は9万8151円余。篤守は相続の際に清水姓に改めたが、明治10年(1880年)には徳川姓に復す。 明治17年(1884年)の華族令で伯爵を授けられたが、篤守は負債を巡る訴訟事件により「華族の礼遇に耐えられず」として、明治32年(1899年)に爵位返上。 明治35年(1902年)6月15日付の『東京朝日新聞』により、清水徳川家の関係者による徳川慶喜の息子を相続人とする再受爵運動を確認できる。 その後、日本最初の航空パイロットとして知られる篤守の嫡子好敏が日本陸軍航空兵分野確立の勲功により、昭和3年(1928年)にあらためて男爵を授けられた。 叙爵理由がまったく異なるとはいえ、一度爵位を返上した家系が再び叙爵された稀有な例である。後に好敏は陸軍中将に昇進している。 |
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【投稿日】2026/03/17 10:04:23 【投稿者】匿名さん |
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孝昭天皇、聖徳太子、天武天皇、持統天皇、元明天皇、皇極天皇、敏達天皇、推古天皇の子孫である田中多太麻呂が開墾した私有地の新田や太田の小字に子孫が徳川や得川の地名をつけていました。
田中氏の先祖の聖徳太子と石川宿禰から、先祖の字を組み合わせたのが徳川です。太田も太子と多太麻呂の太と田中の田の組み合わせた地名。先祖に新田部皇女がいるので新田も地名にしており子孫が名乗りました。聖徳太子の娘片岡女王と田中氏の身内の小野妹子との子孫が片野氏で子孫が藤原魚名。田中多太麻呂の嫁父が魚名。田中と魚名の子孫に藤原得子がいます。得子は源平ハーフです。得子の先祖も聖徳太子なので一族が地名に得と徳を両方使っていたのだと思います。桓武平氏も清和源氏も田中子孫で、源平は身内同士であることから田中氏の荘園に同居して仲良く縁組みしていた時代もありました。徳川家康の先祖を辿ると源平ハーフなのですが家康は源氏と称し、田中子孫の源平ハーフ豊臣秀吉とは仲が良くなかったです。得子の得だと源平ハーフと分かるので源氏の時代になると徳の字を選んだ可能性もあります。松平、平松、松井も田中氏が先祖名の組み合わせでつけた地名です。田中子孫が松平、徳川を名乗りました。私の父も三河松井松平家と平良文子孫の秩父氏流太田家と宇多源氏佐々木家の子孫で出羽田中総本家に婿入りしています。 |
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【投稿日】2025/06/04 12:06:34 【投稿者】こまちさん |
| 三河松平氏以外の徳川氏はいくつか存在したようで、戦国時代の常陸佐竹氏に仕えた徳川氏、室町時代の因幡邑美郡の徳川氏があり、いずれも新田氏流で、それぞれ世良田義季、世良田義政の系統という。 |
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【投稿日】2025/01/17 21:18:08 【投稿者】匿名さん |
| 意外に多い |
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【投稿日】2020/08/15 18:02:07 【投稿者】ゆらいさん |
| 徳川宗家の字は「德川」。 |
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【投稿日】2019/07/24 18:26:52 【投稿者】E=mc²さん |
| みんなの名字の由来 投稿 |
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![]() 徳川葵 |
【都道府県】静岡県 私の住む静岡は、徳川家康が晩年を過ごした所です。 本家の徳川家は、徳川葵紋ですが、 尾張・紀伊・水戸の徳川御三家の家紋はそれぞれ異なります
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| 【投稿日】2016/03/17 21:53:59 【投稿者】池田長兵衛和広さん | |
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【語られているテーマ】好きな名字について語りましょう 【限定地域】なし(全国OK) 【語りたい名字または名前】徳川さん 徳川が好きな人語りましょう。 続きはこちら |
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投稿者:ここにゃん(徳川月望)さん 最新投稿日時:2024/01/31 00:50:45
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※名字の順位・人数は2026年04月時点の政府発表統計および全国電話帳データを元にルーツ製作委員会が独自に算出したものです。
※名字由来netは政府発表統計や独自調査により得られたデータから、日々変化する日本人の名字の人数を日本で唯一算出しております。
※名字の推計人数は四捨五入して掲載しているため、各都道府県の合計人数と全国人数は一致しない場合があります。また、推計人数が少ない名字につきましては、一律「およそ10人」としています。
※名字のローマ字読みにつきましては、「ヘボン式」の表記を採用しております。
※名字の専門企業が算出している日本唯一の名字オリジナルデータですので、ご利用になりたい法人様やマスコミの方々はこちらよりお気軽にご相談ください。
※解説欄に「詳細不明」等と記載されている場合でも、「読み」や「有名人情報」が更新された際「新着・更新」名字欄に掲載されます。
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