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寶學さん
大阪府堺市にみられる光明寺のお墓が存在します。ただし、「學」の字はもっと崩してりますが、「学」ではなく、JIS第2水準でもありません。私の「學」は、結婚後、本籍地を鹿児島に変更する際に、JIS第2水準でパソコンでも表示できる文字に変更しました。
【投稿日】2026/03/09 10:48:11 【投稿者】がっちゃんさん
鳥山さん
鳥山(とりやま)氏は、里見義成の子・時茂から始まる、清和源氏新田氏族里見氏流。

上野国新田郡鳥山邑より起こるという。なお、同国碓氷郡(現・群馬県高崎市)鳥山郷の説もある。

元弘3年(1333年)、時成の曾孫・亮氏は、又従兄弟の蜂須賀親家・能祐兄弟とともに、宗家の里見義胤に従い、鎌倉攻めに加わった(『梅松論』)。

『寛政重修諸家譜』には、「清和源氏 義家流 新田庶流」として鳥山氏が掲載されている。冒頭に挙げられている「与七郎」は、「松平甚太郎義春につかふ」と記載されている。

江戸時代には、三河国の幕府代官を務めた。
【投稿日】2026/03/09 10:11:47 【投稿者】匿名さん
鷲阪さん
鷲阪ですが、聞き覚えですが、時々(ここでも)・ワシザカ・と書き込んでありますが、”阝”の時は、さか、”土”の時が、ざか、と読むと聞いた記憶があります。”阝”でざ と読むのは珍しいと思います。
【投稿日】2026/03/09 09:25:33 【投稿者】ワッシ-さん
片岡さん
小野妹子が聖徳太子の娘片岡女王(実父は聖徳太子ではなく蘇我エミシで母親の連れ子だったと思います)と縁組みし、息子に先祖の名前を継承して小野エミシとつけています。 小野竹良の娘を妻にした田中多太麻呂(天武天皇曾孫)は先祖の片岡を開墾地の小字の地名にし田中小野の縁組み子孫を住まわせたようです。 片岡は片丘や片岳とも表記したようで、田中小野の子孫伊勢継子が平城天皇に嫁ぎ生まれた皇子には先祖片岡女王から髙岳(たかおか)親王とつけられました。 聖徳太子の母親が田目皇子と再婚し生まれた佐富女王を聖徳太子の息子長谷王に嫁がせています。田中の先祖に佐富女王がいますので佐竹や佐野の地名もあります。田中の嫁父藤原魚名の先祖は小野妹子と片岡女王と麻貫玉取です。 佐富の佐と麻貫の貫を合わせた地名の佐貫も田中がつけています。田中と魚名の子孫のために分与した土地です。 千葉も田中が縁組みした橘の先祖三千代の千と、小野の先祖上毛野竹葉瀬から田中がつけた地名で田中吉備のちの中臣豊子(藤原魚名の孫)の子孫桓武平氏が千葉を名乗りました。 田中小野坂上田村麻呂(田中の孫)の子孫が清和源氏で、源平は身内同士で関東の各地で仲よく同居し縁組みしていた時代もありました。片岡は源平どちらからも名乗っていると思います。
【投稿日】2026/03/09 08:05:42 【投稿者】妹子と天武天皇と坂上と鎌足の子孫・小町さん
大谷さん
追加情報です。秋田では能代の二ツ井の栗山地区に大谷姓が多いです。 秋田を開墾した私の先祖田中氏は必ず地名に先祖の字を組み合わせています。 能代の地名には嵯峨天皇の別名賀美能の能、田中の孫の坂上田村麻呂の母方先祖橘三千代の代を組み合わせています。田中と坂上の子孫御井子が嵯峨天皇に嫁ぎ、のちに宮人田中氏とよばれ嵯峨源氏田中澄(清和源氏の先祖)が生まれました。田中澄は京都田中家を継ぎ娘保子を坂上田村麻呂と小野の子孫である棟貞王と縁組みさせ、清和源氏につながりました。 栗山の地名は小野一族で田中と縁組みした羽栗氏の栗、田中の先祖山下影比売の山からです。田中と羽栗の共有地という意味です。 二ツ井のニは、田中や坂上と縁組みした身内の小野氏の先祖ニ派皇子のニだと思われ、井は坂上の先祖葛井からで、小野坂上カップルに田中が分与した土地だと思います。田中の孫の坂上田村麻呂は田中の嫁弟の小野永見の娘と縁組みしました。 また田村麻呂の母は藤原南家の仲麻呂の血筋であるため、東北では坂上の子孫は藤原を名乗り、近江では谷を名乗っていました。谷は田中の先祖長谷王からです。 田中の娘中臣豊子(平髙望の曾祖母)の子孫が桓武平氏であり、渋谷にも先祖の字、やはり谷がつきます。 藤原北家の魚名の娘と田中が縁組みし娘が中臣豊子、豊子の兄は豊子の父親代わりでもあった田中大魚。大魚の娘は伊勢姓にして藤原真夏(田中小野の子孫百済永継の子)に嫁ぎ子孫が道長です。百済永継の父親が飛鳥部奈止麻呂なので止を3つ並べたのが澁谷です。 百済永継も真夏を産んだ後に桓武天皇に嫁ぎました。その皇子は丹党を名乗り子孫が田中と縁組みしています。田中と桓武天皇の子孫同士で縁組みしたのでしょう。 それで渋谷の地名ができたと思います。 大谷は先祖の大海人皇子と大魚の大であるため、桓武平氏や藤原北家の田中子孫が大谷を名乗るのは納得です。 嵯峨源氏田中澄の子孫が源益で、益の妹が陽成天皇の妻です。田中家は益のために益田の地名も各地につけて子孫に名乗らせ、益田氏から見ても大谷は先祖の字です。 大谷は田中坂上の系統の子孫が多く名乗っていると思われ、坂上田村麻呂に似るとバランス力と運動神経が抜群で、田中の先祖聖徳太子に似ると長身イケメンかもしれません。
【投稿日】2026/03/09 07:42:49 【投稿者】妹子と天武天皇と坂上と鎌足の子孫・小町さん
八桁さん
以前、神奈川県横浜市に居ましたが、今は不明。読み方は "はけた" でし。
【投稿日】2026/03/08 16:44:07 【投稿者】Solid-State Lunatic Shadows!!さん
逆藤さん
逆藤さんを確認しました。
【投稿日】2026/03/08 16:15:40 【投稿者】OTYさん
段川さん
おばあちゃん曰く、元々は段の左側は追のしんにょうを抜いた字でした。殷に似て非なる字です。おばあちゃん世代ではまだ使っていて、印鑑もあります。しかし今は使われない字のため、段の字を使っています。
【投稿日】2026/03/08 14:47:36 【投稿者】DANさん
平島さん
平島公方(ひらじまくぼう)、または阿波公方(あわくぼう)は、血統的には室町幕府11代将軍・足利義澄の次男足利義維(のち義冬)の末裔で、家柄的には足利義視、義稙、そして義維と続く足利将軍家別家である。
平島源公または、平薹源公の敬称で呼ばれていた。

代々、阿波国平島荘古津(那賀郡平島村古津(ふるつ)、那賀川町古津、現・阿南市那賀川町古津、及び隣接する南東の西原(西原駅)、大京原、三栗、苅屋(苅屋川流域)、赤池(平島小)、上福井(多くの小字を含む。旧・福井村)、北中島、中島(阿波中島駅の起源))に住す、

なお、公方と称されるものの、この系統で実際に将軍職に就任したのは第14代将軍足利義栄のみで、義栄以外の人物には、将軍家一族という意味で使われる。

明応の政変に加え永正の錯乱まで勃発すると、足利氏将軍職争いに細川氏の管領職争いまで絡んだため、畿内の戦乱は複雑化し長引いた。

足利義視の子・足利義稙と、足利政知の子である足利義澄の争いは、畿内の有力守護大名を巻き込み混迷を深めた。

やがて将軍職が12代・足利義晴(義澄の子)で一本化されようとも、細川氏では細川高国と細川晴元が、なおも管領職をかけて争い続けていた。

その際義晴将軍を名目上であろうと担ぎだした場合には、現職の管領(高国側)が官軍となり、他方(晴元側)が賊軍となってしまう。

元将軍の義稙は大永3年(1523年)に阿波で死去していた。そこで義澄の実子でありながら、義稙の養子となっている足利義維が必要とされた。

義維が義稙の子(養子)であるというその事実こそが、義晴将軍に対して厳然たる対立軸として有効に機能する権威であったため、晴元側としては見逃せない大きな魅力であった。

他方、義維としても、晴元に荷担することがあわよくば将軍への道が拓けよう、養父の義稙の無念を晴らせるであろうという利害の一致があった。

その後大永7年(1527年)の桂川原の戦いで敗退した高国が、掌中の玉・義晴将軍を伴って近江国坂本へ逃亡したため、立場を逆転させた義維・晴元体制は、和泉国で新政権樹立の足掛かりを築くまでになる(堺公方)。

挽回を期する管領の細川高国を摂津国にて破り、自害にまで追い込んだ晴元であったが、この後は徐々に変心した。

空位となった管領の座に就き、義維を棄てて義晴将軍を推戴する側に回ったためである。

晴元は保身のため、それまで晴元軍の中核であった有力被官・三好氏の弱体化を図って和泉国の顕本寺を敵対宗派の一向一揆に襲わせた。

顕本寺を根拠地としていた三好氏の総帥・三好元長(海雲)は自害、義維を阿波国へ逃がした。

かくして堺公方は消滅、将軍の夢を断たれた義維は、天文3年(1534年)に阿波守護・細川氏之(持隆)に迎えられ、阿波国平島荘の西光寺に入り、3千貫の所領を得る。

その後永禄年間に平島塁を修築して、平島館に移った。阿波の人々が、足利家の子孫を「平島公方」と呼ぶ起源となった。


元長の遺児・三好長慶は、長い歳月をかけて亡父以上に勢力を伸ばすと、終には晴元を追い落とし、幕府の相伴衆に上り詰めた。

実質幕政の中枢を握ったに等しい事態である。その間、平島公方の血統は細川氏や三好氏の庇護を受けていたが、将軍への道は拓かれずに過ごしていた。

なお天文22年(1553年)に細川氏之が家臣の三好実休によって殺害されると、義維は長子の足利義栄らとともに正室の実家である大内氏を頼って周防に下向、永禄6年(1563年)に阿波に戻ったとされる。

しかしこれは事実ではなく、実際は阿波に逼塞していたと考えられている。

やがて長慶の死去に伴い、三好氏では三好三人衆による指導体制に移行したが、幕政からの三好氏排除を目論む13代将軍・足利義輝への対応に苦慮するようになり、三人衆らは困り果てた末に永禄8年(1565年)5月19日には二条御所を襲撃、義輝を弑逆するという暴挙に出た(永禄の変)。

将軍に辞任を迫ることがあっても、命を奪うまでの行為は言うなれば禁じ手であったが、三好領内に居をかまえていた平島公方(義維や義栄)の存在が実行に踏み切らせた一大事件でもある。

新しい公方に迎えられるに当たって、堺公方消滅時には20歳余と若かった義維は、病気のため除外されたことで、長子の義栄が擁立され、朝廷から左馬頭に叙任された。ところが三好三人衆が、松永久秀との内部権力抗争に明け暮れ、義栄の将軍就任への働きを疎かにした。

実際に義栄が将軍に就けたのは、永禄11年(1568年)2月8日であった。

若狭・越前の朝倉や近江の六角など反三好の勢力が京都周辺には残っており上洛できなかったのが、就任の遅れ(朝廷がなかなか許可しなかった)に強く影響したものと思われる。

前将軍の義輝襲撃から、2年半以上の歳月が流れていた。しかもその後も義栄の入京はままならず、将軍宣下を受けても、なおも摂津国に留まり続けていた。患っていた腫れ物を悪化させていた事も影響したとの説もある。

将軍就任に向けて無駄に歳月を浪費した事態は、新体制を固めきれない三好政権には好ましくない結果をもたらした。

同年9月、前将軍・義輝実弟である足利義昭を推戴する織田信長が上洛軍を発したのである。

近江国の六角氏を退けて進軍する織田軍とは、「義栄を戴いての決戦」を選択肢に残していた三好氏ではあったが、結局は阿波国への退避を選択した(義栄の病没により断念した可能性もある)。

その後、織田氏への抵抗を幾度も示した三好氏ではあったが、戦局の悪化により畿内復権の道は閉ざされた。


義栄が死去しても、弟の義助によって家名は存続された。

だが、義昭政権の後ろ盾であった信長軍は三好氏(その没落後は長宗我部氏)が単体で退けるには力の差がありすぎた点に加え、若干の奉公衆はいるものの、独自の大兵力がない公方家であった。

天正5年(1577年)以降、土佐の長宗我部元親が阿波に侵攻することになった。だが義助は、元親から阿波への出兵と所領の安堵を伝えられほか、天正10年(1582年)9月には馬を送られるなど、元親との友好を深めている。

長宗我部氏が義助を尊重する意思を示したのは、阿波はもとより四国では依然として、足利将軍家の家格による効力があったからである。

天正13年(1585年)7月、義助を尊重していた元親が豊臣秀吉の四国征伐で敗れ、土佐一国を領有するのみとなった。

そして戦後の論功行賞により、阿波は蜂須賀家政に与えられた。

蜂須賀氏阿波入りに至って、義助は3千貫の所領を没収され、平島にわずか100石の「茶料」のみが与えられることとなった。これ以外に、後の徳島市富田町3丁目に当たる地を得て、蜂須賀氏との折衝などのための出屋敷として使用した(富田下屋敷)。


平島公方の権威は長宗我部氏らには尊重されたが、豊臣政権の下で国持大名となった蜂須賀氏の下では、そうした権威は自身の統治において邪魔な存在でしかなかった。


豊臣秀吉天下になっても1万石という待遇を保てた足利義昭や、江戸幕府の下で大名格の扱いを受けた喜連川氏(鎌倉公方家後裔)とは対照的に、織豊期はおろか徳川期における蜂須賀氏客将時代でも、平島公方は冷遇されていた。

一方で、堂上家(公家)である水無瀬家や持明院家の娘や西洞院家の養女を妻に迎えた当主もおり、その権威や血筋を京都の天皇家をはじめとして朝廷の貴族からはある程度認められていた。

しかし実際の暮らし向きに権威や血筋が反映されておらず、阿波徳島藩主・蜂須賀家からは客将として扱われたとはいえ、上述のとおりわずか100石の茶湯料しか与えられていなかった。

蜂須賀家としては、領内にこのような権威を持つ特別な家が存在することは好ましくないが、領外に退去させることも踏み切れなかったためである。

慶長13年(1608年)、足利義次は足利の家名を平島に改姓、平島又八郎と名乗らされたうえ、公方家の藩に対しての取り次ぎ窓口を家老職から、一般寄合階級に振りかえるなどの一層の冷遇を受けた『平島公方史料集』所収の史料によると、蜂須賀家は阿波公方家を自身の直臣下として組み込もうと計画していた事実もある。

不遇下でも、歴代当主の中には漢籍などに長けた者(例えば義宜)などが多く、一大文化拠点のようなものを形成していたこともあった。

4代義次の代には旧領のうち七浦山が返還され、5代義景の代には現米100石の合力米が許され、やがて明和年中(1764年 - 1771年)には現米950石が給され1190石まで知行が加増したなど、ようやく待遇の改善も見られた。蜂須賀治昭の幼少の頃は友好関係を取り戻していた。8代義宜は京都の学者の島津華山を招いたことで、公方家の住まいであった平島館は漢文学サロンを形成することになった。

だが文化2年(1805年)、9代義根は病気療養を名目に、阿波退去の許可を請うた。藩主蜂須賀治昭は、好学であったため義根の教養を惜しんで引き留めたが、義根の意志は変わらなかったため阿波退去を許可、義根には餞別として銀300枚を、平島家代々の墓がある西光寺には墓守料50石を与えた。

退去の真相は明らかではないが、義宜の頃より、平島家が松平大和守や大奥を刺激した、蜂須賀重喜追い落とし工作に対する蜂須賀家の平島家への意趣返し(栄典剥奪など)に耐えかねたという説や、屋敷や領内の七浦山の上質の木材を未処分のまま、あわただしく退去していることから、義根の子・義寛を紀州藩に仕官させる内約があったため急いで退去したという説がある。

しかし急いで退去したというには疑問がある。退去を公方家が阿波藩に届けてからかなり経過していること、それについて退去督促状を阿波藩が公方家側に出していること、退去費用捻出のために屋敷の施設を各所に売却するなどしていたこと、退去時の同行家臣は公方が平島に居着く以前の者に限ることなどを阿波藩が布告、その通りにさせていることなどが挙げられる。

また、義寛の仕官の伺いは、阿波退去後に出されていること、安政年間に、義俊が紀州藩家老宛に「知行地もしくは邸宅下賜の願い」を出していることなどが上げられる。 『徳島県史』がこれらに触れていないのは、編纂時に平島側史料にそれほど拠っていないためだと言える。

文化2年(1805年)7月25日、義根一行は船で京都に向け出港した。

その後義根は、母方実家の京に居を定め、姓を平島から足利に戻したが、禄もないので次第に窮迫して家臣の数も減らしていき、等持院などかつての足利将軍家が庇護を与えていた臨済宗系大寺院からの援助を受けるなどして、足利の家名を維持したという。

蜂須賀家にも援助することを求めたが、蜂須賀家は退去の経緯から断っている。

なお江戸時代末期までは、平島公方家には紀州藩から毎年200両の援助があった。

明治時代に入ると、義俊は、足利将軍家正当な末裔として華族に遇されるように運動を行ったが、多くの華族取り立て志願の家と同じように却下された。実収入の伴わない名門華族にはもともと反対の声が多く、受爵に失敗したのみか、阿波藩から脱藩していたため士族にもなれず、洛西の下山田村(現在京都市西京区)にて帰農、平民となった。

14代当主の足利義弘は京都に住み、足利将軍家と関係がある自治体らで作る「全国足利氏ゆかりの会」の特別顧問を務めた。義弘は2018年10月に徳島県阿南市で開かれたゆかりの会の総会にも参加している。
【投稿日】2026/03/08 11:21:30 【投稿者】匿名さん
跡治さん
北海道釧路町にも見られる
【投稿日】2026/03/08 10:18:55 【投稿者】keep1964さん
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