戸沢
【読み】とざわ,とさわ
【全国順位】
2,057位
【全国人数】
およそ7,100人
由来解説
戸沢さんの多い地域 TOP5
| 都道府県 | 人数 |
|---|---|
| 秋田県 | およそ1,000人 |
| 東京都 | およそ890人 |
| 北海道 | およそ580人 |
| 埼玉県 | およそ550人 |
| 神奈川県 | およそ520人 |
| 市区町村 | 人数 |
|---|---|
| 秋田県仙北市 | およそ340人 |
| 愛知県豊橋市 | およそ310人 |
| 栃木県栃木市 | およそ260人 |
| 秋田県北秋田市 | およそ210人 |
| 秋田県仙北郡美郷町 | およそ210人 |
戸沢さんの比率が多い地域 TOP5
| 都道府県 | 比率 |
|---|---|
| 秋田県 | 0.10908% |
| 山梨県 | 0.03215% |
| 栃木県 | 0.01832% |
| 青森県 | 0.01667% |
| 北海道 | 0.01146% |
| 市区町村 | 比率 |
|---|---|
| 秋田県仙北市 | 1.289% |
| 秋田県仙北郡美郷町 | 1.078% |
| 北海道爾志郡乙部町 | 0.838% |
| 秋田県北秋田市 | 0.661% |
| 埼玉県大里郡寄居町 | 0.488% |
戸沢さん有名人ランキング TOP10
| 名前 | 生年月日 | ジャンル | 備考 |
|---|---|---|---|
| 戸沢 光盛 | 1576年 | 歴史 | 織豊期の大名、戸沢氏19代当主、出羽角館城主 |
| 戸沢 正令 | 1813年 2月 2日 | 歴史 | 出羽新庄藩10代藩主、戸沢正胤次男 |
| 戸沢 正実 | 1833年 1月 7日 | 歴史 | 出羽新庄藩11代藩主、藩知事、子爵新庄戸沢家初代 |
| 戸沢 正胤 | 1793年 1月 21日 | 歴史 | 出羽新庄藩9代藩主 |
| 戸沢 政盛 | 1585年 | 歴史 | 常陸松岡藩主、出羽新庄藩初代、戸沢氏20代当主 |
| 戸沢 盛重 | 1551年 | 歴史 | 出羽の戦国大名、戸沢氏17代、戸沢盛安兄 |
| 戸沢 正誠 | 1640年 11月 26日 | 歴史 | 出羽新庄藩2代藩主、戸沢政盛次男 |
| 戸沢 秀盛 | 1466年 | 歴史 | 出羽の戦国大名、戸沢氏15代当主 |
| 戸沢 正賜 | 歴史 | 江戸中期の出羽新庄藩世嗣、新庄戸沢正胤長男 | |
| 戸沢 征盛 | 歴史 | 出羽戸沢氏14代 |
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| 戸沢さん みんなの名字の由来 |
|---|
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戸沢氏(とざわし)は、武家・華族、陸奥国・出羽国を支配した国人・戦国大名であり、江戸時代には出羽国新庄藩主を世襲、明治維新後華族の子爵家に列す。 戸沢氏は平忠正の子、平維盛より始まり、大和国三輪を本拠地とする。その子平衡盛の代に、木曾義仲に属したが、その不義を憎んで奥州磐手郡滴石庄(岩手県雫石町)に下向した。 1185年に源頼朝に臣従、屋島の戦いや奥州合戦での活躍が認められ、磐手郡滴石庄内に4千6百町歩の土地を与えられ大身御家人となる。その時に滴石庄の戸沢邑に居を構えて戸沢氏と称す。 1206年、戸沢兼盛は、南部氏から攻められ滴石(岩手県雫石町)から門屋小館(秋田県仙北市西木町西明寺)に移転。1220年に門屋小館から門屋へ移り、1228年門屋城を築城。以上が『藩翰譜』などが伝える戸沢氏の出自とされる。 家祖とされる平衡盛の「衡」という漢字から、奥州藤原氏郎党だったと言う説もある。衡という字は奥州藤原氏が通字として使用しており、歴代当主以外の人物も用いるもので、衡盛の「衡」は藤原氏からの偏諱を受けて付けていたものと推察できる。また本拠地とされる滴石も、藤原清衡の母方の安倍氏本貫地の厨川に極めて近く、奥州藤原氏一門内部でかなりの地位にあったものと考えることができる。 以上を踏まえ、滴石に古くから土着していた荘園の開発領主と言うのがその実態であり、奥州征伐の際藤原氏に協力しなかったことで辛うじて家名存続を許されたが、新しくきた関東御家人の圧迫を受け、出羽国に移っていったという説が奥州藤原氏郎党説である。 鎌倉時代初期に仙北郡門屋地方に進出し、周囲に勢力を拡大して行った。初め小館を建て、そこから周囲の寺社や豪族を傘下に治めていったものと思われる。本拠地である滴石庄も引続き支配下にあったが中期の頃になると、南部氏の圧迫を受け最終的には南部氏与騎にならなければ存続が難しかったものとみられる。記録上は戸沢氏が桓武平氏を名乗るのもこの頃である。 鎌倉幕府が滅んで建武新政が始まると、公家の北畠顕家が陸奥守として下向してくる一方、足利尊氏の離反と石津の戦いの顕家戦死により、奥羽国人は動揺、それぞれ南朝と北朝別れ抗争が始まる。 戸沢氏は南朝に属し、顕家の弟北畠顕信が一時期滴石城に入っていたとの記録があり、また別の記録では「興国二年(1341年)顕信は、武家方の奥州総大将石塔義房を攻撃するために、葛西・和賀・滴石・河村・南部の兵を動員した」とある。 ここにある「滴石城」「滴石」とはまさに戸沢氏を指しており、戸沢玄盛と推察される。 興国二年の合戦は顕家の敗戦に終わり、顕家は滴石城に入城した後、出羽国へ去った。この時に滴石の兵も従ったとある。 南部氏側資料に拠ると「南部晴政の代に滴石に進出し、敵方を出羽に追いやった」の記録があり、戸沢家譜に拠れば応永30年(1423年)、戸沢家盛の代に本拠地を角館に移したとする。 何時本拠地を仙北郡門屋地方に移したかは定かではあらずまた、別資料に拠れば「角館戸沢氏」「滴石戸沢氏」と仙北地方、滴石にそれぞれ戸沢氏がいたことが推察される。 興国二年合戦以後、南部氏が北朝方に寝返り、また北陸奥における足利氏勢力が増大したことが契機となって、この際仙北地方に移ったと推測される。但し滴石庄を失ったようではなく、そこにはむしろ庶流を置いていったものとみられる。 その後戸沢氏は、門屋城を根拠地として南朝方の武将として各地を転戦したようであるが、戸沢英盛代の延文元年(1356年)には鎌倉へ出仕。この頃には既に他の武将達同様に北朝方に転向し時代を生き抜いたようである。 仙北郡門屋地方に本拠を置いた戸沢氏は、門屋城を根拠地とし、周囲にいくつもの出城を構築してネットワークを形成、門屋地方の領国基盤を強化して行く、その後、本拠地を門屋から角館に移し、門屋地方からさらに仙北三郡の内、北浦郡全域への支配拡大を目指して行った。 中世前期戸沢氏の動向については、『戸沢家譜』など以外には確証がないが長享3年 神宮寺八幡宮(現大仙市神宮寺)を再興し、棟札に名を書きとどめた「平朝臣飛騨守家盛」は戸沢氏当主であったものと思われ、これが初見史料となる。 角館に本拠を移転した時期については諸説ある。 応永年間 ※室町時代中期 天文年間 ※戦国時代中期 応永年間の説は戸沢家譜に「応永三十一年に戸沢家盛が角館に柵を築く」とあり、付近の神宮寺八幡宮に「平朝臣飛騨守家盛」の記録があることが根拠であるが、応永年間の仙北郡は南部氏、小野寺氏が争っている最中であり、そこに戸沢氏が割って争っていたとは考え難い。 天文年間の説は南部氏文書の「南部晴政の代に滴石に進出し、敵方を出羽に追いやった」という記録が根拠である。ただしそこから豊臣秀吉の小田原征伐までわずが40年の猶予しかなく、その間に仙北郡全域を掌握できたとは考えられない。 『戸沢氏系図』によると「正員の子政保が角館に柵を移す」とあり、家譜と比較すると文明11年(1479年)に家督を継いだ戸沢秀盛の頃である。 また、神宮寺八幡宮の「平朝臣飛騨守家盛」の記録も、長享3年(1489年)と秀盛の治世の頃である。以上の事より、戸沢氏の角館移転は文明年間と考えられる。 応仁2年(1468年)南部氏が小野寺氏との抗争に敗れ、仙北三郡から撤退する。 戸沢氏は北浦郡の統一に成功、仙北三郡の覇権を巡り小野寺氏さらには安東氏との抗争を開始する。 明応5年(1496年)に大曲地方への進出をかけ、安東忠季と戦う。秀盛は弟の戸沢忠盛に二千の兵を与えて淀川城の守備に就かせる。 両軍は唐松野で激突したが引分けに終わり、永正年間には小野寺氏と戦う。両者一歩も退かぬ長期戦となり、最後は楢岡氏仲介で和睦。 大永7年(1527年)には、再び安東氏と激突、この合戦は安東氏の謀略により、家中分解の危機に陥ったが、何とか引き分けに持ち込む。 この合戦で戸沢氏家臣の結束は強まり、戦国大名化に成功。 享禄2年(1529年)、秀盛死去。後を戸沢道盛が継ぐ。僅か5歳であった。 秀盛の後を道盛が継いだが、僅か5歳と幼く叔父の忠盛が角館に入城して後見人を務めることになる。ところが忠盛が宗家奪取を企てて道盛と生母(楢岡氏出身)は城外に追放された。 この一方的な謀反は家臣団や周辺諸侯の支持を得られず、楢岡氏を中心に六郷氏・本堂氏・白岩氏らが結束して忠盛に圧力をかけ、道盛の角館復帰、忠盛の淀川城退去で決着。 天文10年(1541年)、小野寺氏が北浦郡攻略を開始した。 天文9年(1540年)に本宗地滴石を失陥し、更に天文14年(1545年)には淀川城を安東氏によって奪われており、戸沢氏最大の危機的状況であった。家臣団も降伏やむなしの雰囲気だったとされる。しかし道盛母の奮起と、それに応えた家臣団の必死の抵抗により小野寺氏は以上の攻略を諦める。 天文16年(1547年)、淀川城を奪還し、荒川城をも攻略、大曲土屋の富樫氏を臣従させることにも成功。 元亀元年(1570年)には、富樫勝家に高畑に築城させて小野寺氏への逆襲を開始した。 こうして戸沢氏勢力は、北浦郡全域と仙北中郡、旧仙北郡の大部分を平定。道盛は本堂氏女と結婚した。 道盛の子戸沢盛安は、小野寺氏や秋田氏などと戦い勢力を拡大、勇将として「鬼九郎」の異名をとる。天正18年(1590年)には、豊臣秀吉の小田原征伐に従軍、陣中で病没。 家督相続した弟の戸沢光盛は、豊臣秀吉から本領北浦郡4万4000石を安堵。しかし文禄元年(1592年)にら朝鮮出兵の途上播磨国姫路城で病死。光盛の死後、盛安の子の戸沢政盛が家督。 秀吉の死後政盛は、徳川家重臣の鳥居元忠の娘と縁戚を結んで徳川方へ急速に接近、関ヶ原の戦いでは東軍に属して最上氏と共に西軍の上杉氏と戦う。しかし消極的だったと咎められ、常陸国松岡4万石へ減転封。 松岡藩転封後も政盛は、正室真室御前の兄弟鳥居忠政の次男又三郎定盛を婿養子に迎え(ただし相続前に死去)、鳥居氏との関係強化を強める。 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では小田原城の守備、翌20年の大坂夏の陣では鳥居忠政とともに江戸城の留守居役を命じられたため、本戦には参加せず。 元和8年(1622年)に山形藩主最上家が改易となり、その領地に鳥居忠政(山形藩22万石)、酒井忠勝(庄内藩14万石)、松平重忠(上山藩4万石)、酒井直次(左沢藩1万石)などとともに、戸沢政盛が、2万石加増のうえ出羽国新庄に移封。 さらに寛永2年(1625年)には出羽国最上郡・村山郡2郡において新田8200石を加え6万8200石に高直しされた。以降この表高で出羽国新庄藩主家として廃藩置県まで存続。 最後の新庄藩主正実は、慶応4年(1868年)の戊辰戦争で当初奥羽越列藩同盟側につくも、同年7月に久保田藩主佐竹家が同盟脱退と奥羽鎮撫総督府軍への参加を決定、戸沢家もそれに続いて総督府軍に転ずる。 緒戦では賊軍の領内侵攻を受け新庄城が落城するなど苦戦を強いられたが、その後各地を転戦、糠塚山や苅和野などの戦闘で賊軍に対して勝利をあげ、居城を回復。 戦後正実は、その勇戦を称えられ明治2年(1869年)6月19日に賞典禄1万5000石を下賜。 同日に版籍奉還に伴って新庄藩知事に転じ華族に列、明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県に伴って罷免されるまで藩知事に在職。 版籍奉還の際に定められた家禄は現米で2607石。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄(2607石)と賞典禄(実額3750石)の合計6357石と引き換え支給された金禄公債の額は、7万380円55銭7厘(華族受給者中95位)。 明治前期の忠敬の住居は東京府麻布区森元町にあった。当時の家扶は、中村英慶。 明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事として正実は子爵に列せらる。 明治29年に正実が死去、維新の功により従二位が追贈。 その孫の正己は貴族院の子爵議員に当選して務める。彼の代の昭和前期に戸沢子爵家の住居は東京市小石川区丸山町にあった。 |
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【投稿日】2026/02/05 09:11:41 【投稿者】匿名さん |
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