京極

【読み】きょうごく,きょうぎょく,きょうきょく
【ローマ字】
【全国順位】 3,481位
【全国人数】 およそ3,500人


由来解説

江戸時代の大名家のひとつ京極家は京師京極が起源(ルーツ)である、宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏宇多源氏佐々木氏流。
②現愛知県である尾張藩。
③現東京都埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵
などにみられる。
平安京などの都城東西南北の最端が語源。 

最終更新:2026/05/29 09:31:40  最終更新者:匿名


京極さんの多い地域 TOP5

都道府県人数
大阪府 およそ530人
東京都 およそ450人
秋田県 およそ230人
兵庫県 およそ220人
静岡県 およそ210人
市区町村人数
秋田県秋田市 およそ160人
秋田県大仙市 およそ60人
兵庫県姫路市 およそ60人
大阪府枚方市 およそ50人
兵庫県豊岡市 およそ50人

京極さんの比率が多い地域 TOP5

都道府県比率
秋田県 0.02459%
宮城県 0.00855%
島根県 0.00684%
京都府 0.00634%
大阪府 0.00625%
市区町村比率
島根県邑智郡川本町 0.412%
島根県邑智郡美郷町 0.217%
岩手県気仙郡住田町 0.216%
静岡県賀茂郡東伊豆町 0.189%
北海道雨竜郡雨竜町 0.186%
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京極さん有名人ランキング TOP10

名前 生年月日 ジャンル 備考
京極 高永 1720年 5月 29日 歴史 但馬豊岡藩5代藩主、豊岡藩京極家7代
京極 高之 1678年 6月 3日 歴史 丹後峰山藩4代藩主、書家
京極 高明 1660年 6月 2日 歴史 丹後峰山藩3代藩主
京極 高徳 1858年 12月 9日 政治家 子爵丸亀京極家初代、貴族院議員、実業家
京極 高矩 1718年 5月 14日 歴史 讃岐丸亀藩4代藩主、丸亀藩京極家6代
京極 高盛 1650年 9月 22日 歴史 丹後田辺藩3代、但馬豊岡藩初代、豊岡京極家3代
京極 高通 1603年 10月 13日 歴史 丹後峰山藩初代藩主、朽木宣綱次男
京極 高久 1729年 5月 21日 歴史 丹後峰山藩6代藩主、峰山分家旗本京極高庭四男
京極 夏彦 1963年 3月 26日 文学者 本名は大江勝彦
京極 高中 1754年 5月 14日 歴史 讃岐丸亀藩5代藩主、丸亀藩京極家7代
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戦国武将・大名の家紋


十六菊

丸の内に二つ引き

隅立て四つ目

平四つ目

繋ぎ四つ目
京極さん みんなの名字の由来
尼子家(宮内少輔家)は、
京極高久(尼子高久)に始まる家。近江尼子の地を本貫地とする。

京極氏有力一門として室町幕府に仕え外様衆に列し、時に将軍家に近侍した。当主は宮内少輔を代々称す。奉公衆。庶流は出雲で尼子氏となった。
【投稿日】2026/06/03 18:20:17
【投稿者】匿名さん
鞍智家は、
京極宗氏(佐々木宗氏)の庶子京極時満(鞍智時満)に始まる家。奉公衆。その庶流は出雲で鞍智氏となった。
【投稿日】2026/06/03 18:19:56
【投稿者】匿名さん
高橋家(三州家)は、
京極高氏(佐々木道誉)の次男、京極秀宗(高橋秀宗)に始まる家。

近江の高橋に館を構えたため、京極高橋家ともいう。この京極家は秀宗の弟の甲良高秀(京極高秀)に京極家の家督の地位を譲り、宗家を支える有力庶子家となった。当主は三河守を代々称す。
【投稿日】2026/06/03 18:19:42
【投稿者】匿名さん
宍道家(兵部少輔家)は、
京極秀益(宍道秀益)に始まる家。出雲宍道の地を本貫地とする。

京極氏有力一門として室町幕府に仕え外様衆に列し、時に将軍家に近侍した。当主は兵部少輔を代々称す。奉公衆。諸流は出雲で宍道氏となった。
【投稿日】2026/06/03 18:19:16
【投稿者】匿名さん
能勢家(治部少輔家・佐州家)は、

京極高秀の次男、京極満秀(みつひで、将軍足利義満より1字を賜う)に始まる家。

摂津国分郡守護家。京極高氏(道誉)は摂津守護になったが、その解任後も、能勢郡と河辺郡北部の分郡守護は維持した。次代の京極高秀も、この摂津分郡守護を兼ねた。

京極家の惣領が、高秀の長子である京極高詮に決まると、摂津分郡守護は次子・京極満秀のものとなり、満秀の子孫に継承された。

多田に館を構えたため、京極多田家ともいう。代々の当主が佐渡守を名乗ったことから、佐州家ともいう。
【投稿日】2026/06/03 18:18:39
【投稿者】匿名さん
加州家

京極高詮の次男、京極高数に始まる家。高数を初見として代々の当主が加賀守を名乗ったことよりこの名が定着したようである。甥(兄・高光の嫡男)・京極持高の跡を受け、高数は京極家の家督となったが、次代京極家当主は甥(持高弟)である京極持清の血筋に戻ったため、高数の嫡男・京極教久(のりひさ、将軍・足利義教より1字を賜う)は別に家を立て、以降宗家を支えた。

この家は、室町幕府においても京極別家(国持に准ずる外様衆)として重んじられ、将軍家から新たに所領も拝領、次代京極政数(まさかず、名は政宗(まさむね)とも、将軍足利義政より1字を賜う)以降も続いた。

幕府内で活躍したほか、京極氏の主たる領国である出雲においても、鞍智氏とともに宗家代理として活躍した。

応仁の乱以降は、荒廃する京都を離れ、出雲に拠点を移す。戦国大名として台頭した尼子氏からは、宍道氏と同じく御一門衆として、厚遇されたため臣従、尼子氏の他の領国で城督をつとめるなど、活躍した。主家である尼子氏没落と運命をともにするものの、江戸時代まで松江藩藩士として家系を残した。
【投稿日】2026/06/03 18:17:49
【投稿者】匿名さん
京極子爵家(丸亀)

最後の丸亀藩主京極朗徹は、明治元年1月、朝廷の命を受けて朝敵の高松藩征伐に支藩の多度津藩とともに従軍した後、明治2年(1869年)6月に華族に列するとともに版籍奉還で知藩事に転じ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県まで務めた。

版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で3312石。

明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄の代わりに支給された金禄公債の額は11万1745円60銭8厘(華族受給者中63位)。

高徳の代の明治17年(1884年)7月8日に旧小藩知事(丸亀藩は現米3万3120石だったので現米5万石未満の小藩に該当)として子爵に叙せられた。

高徳は、現在の北海道虻田郡京極町に農場を拓き、後に町名の由来となった。貴族院子爵議員も務めた。

昭和前期に丸亀京極子爵家の邸宅は東京市杉並区上荻にあった。

京極子爵家(多度津)

最後の多度津藩主京極高典は、明治元年の鳥羽伏見の戦いの際、錦旗奉行四条隆謌護衛の任に付き、その後朝敵となった高松藩征伐で先鋒を務めた。

明治2年(1869年)に華族に列するとともに版籍奉還で知藩事に転じ、明治4年(1871年)の廃藩置県まで務めた。

版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で740石。

明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は3万2405円24銭5厘(華族受給者中164位)。

明治17年(1884年)7月8日に旧小藩知事(多度津藩は現米7400石だったので現米5万石未満の小藩に該当)として子爵に叙せられ、貴族院の子爵議員を務めた。

息子の京極高備子爵も陸軍将校を経て貴族院の子爵議員に3回当選。

京極子爵家(豊岡)

最後の豊岡藩主京極高厚は、明治2年(1869年)に華族に列するとともに版籍奉還で知藩事に転じ、明治4年(1871年)の廃藩置県まで務めた。

版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で538石。

明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は1万6237円20銭(華族受給者中271位)。

明治17年(1884年)7月8日に旧小藩知事(豊岡藩は現米5380石だったので現米5万石未満の小藩に該当)として子爵に叙せられ、貴族院の子爵議員を務めた。

息子で爵位を継いだ京極高義も貴族院議員になっている。

その息子で爵位を継いだ京極高光は俳人として著名になった。

昭和前期に豊岡京極子爵家の邸宅は、東京市渋谷区代々木にあった。

京極子爵家(峰山)


最後の峰山藩主京極高陳は、明治2年(1869年)に華族に列するとともに版籍奉還で知藩事に転じ、明治4年(1871年)の廃藩置県まで務めた。

版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で603石。

明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は1万7790円88銭5厘(華族受給者中253位)。

明治17年(1884年)7月8日に旧小藩知事(豊岡藩は現米6030石だったので現米5万石未満の小藩に該当)として子爵に叙せられた。京極高頼子爵の婿養子となり爵位を継いだ京極高鋭は、東京日日新聞や読売新聞の記者として音楽ジャーナリストとなり、内閣情報部や陸軍省の嘱託を経て。戦後も音楽評論家として活躍した。

昭和前期に峰山京極子爵家の邸宅は東京市麹町区九段にあった。
【投稿日】2026/06/03 18:14:22
【投稿者】匿名さん
高知流 (丹後京極家)

京極高知は、嫡男高広に宮津藩7万8,000石を、三男の高三に丹後田辺藩3万5,000石を、甥で婿養子の高通に峰山藩1万石を分けて継がせた。

宗家は改易されたが、分家は大名として存続した。

高広流(宗家)

高広と嫡子で家督を継いだ高国の間で争いが生じ、寛文6年(1666年)に幕府により改易、所領を没収される。その後高国の嫡子である高規とその子孫は、高家として幕府に仕えた。


高三流

高三の孫である高盛は丹後田辺藩3万5,000石から但馬豊岡藩3万5,000石へ転封。高盛の孫である高寛は夭折し、高永が末期養子として1万5,000石を継ぎ、明治維新を迎え子爵に列せられた(→豊岡京極子爵家へ)。

1万3,000石の大名として、丹後峰山藩で明治維新を迎え子爵に列せられた(→峰山京極子爵家へ)。
【投稿日】2026/06/03 18:06:27
【投稿者】匿名さん
高次流 (若狭京極家)


京極高次は、慶長14年(1609年)に47歳で死去、息子の忠高は大坂の陣で功績を挙げ、越前敦賀郡1郡をさらに加増される。徳川将軍家より正室を迎え、寛永11年(1634年)、室町時代にかつて京極氏が守護として世襲した旧領国の出雲・隠岐の2カ国26万4,000石へと加増転封とされた(松江藩)。

しかし忠高は寛永14年(1637年)に嫡子の無いまま急死、末期養子に甥の高和(京極忠高の弟安毛高政の嫡男)を望んでいたが、認められず改易されかけたが、高次の功績により存続を許され、高和は播磨龍野藩6万石へと移封減封、さらに讃岐丸亀藩6万石へと転封となる。丸亀藩は飛び地として、近江の一部も領していた。

高和の子である高豊も、40歳で急死したため、嫡子の高或に5万1,000石を、庶子の高通に多度津藩1万石を、それぞれ継がせることになり、高或は3歳、高通は4歳で藩主となった。高或・高通の成人以降は安定した時期が続いた。

高或流(宗家)
丸亀で明治維新を迎え、子爵に列せられた(→丸亀京極子爵家へ)。
高通流
多度津で明治維新を迎え、子爵に列せられた(→多度津京極子爵家へ)。
【投稿日】2026/06/03 18:05:01
【投稿者】匿名さん
京極氏(きょうごくし)は、武家・華族。

宇多源氏佐々木氏一流で高氏(道誉)の代、室町幕府創立に功をあげ近江国など五カ国の守護となり、子孫は四職家の一つとして権勢をふるった。

応仁の乱後衰退するも、高次が豊臣秀吉に仕えて再興。

江戸時代にも複数の藩の外様大名家として残り、維新後大名だった4家の京極家が華族の子爵家に列す。

京極氏の源流である佐々木氏は、鎌倉時代以前より近江にあり、近江源氏とも称された。

鎌倉時代に近江他数か国の守護に任じられていた佐々木信綱は、4人の息子に近江を分けて継がせた。このうち、江北(北近江)にある高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の6郡、京都の京極高辻の館を継いだ四男・氏信を祖とする一族が後に京極氏と呼ばれるようになる。

なお、この時に江南(南近江)を継いだ三男の泰綱は、佐々木宗家を継いで六角氏の祖となっている。

長男の重綱と次男の高信も坂田郡大原庄と高島郡田中郷を相続、それぞれ大原氏・高島氏の祖となった。

足利尊氏に仕えた佐々木道誉(京極高氏)活躍により、京極氏は室町時代に出雲・隠岐・飛騨の守護を代々務め、四職(侍所所司になれる家)の一つとして繁栄した。

応仁の乱後は家督争いや浅井氏の台頭により衰退したが、京極高次・高知兄弟が戦国時代に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えて家を再興し、外様大名として若狭国主、丹後国主となった。

分封、転封、改易はあったが、4家の京極家(讃岐国丸亀藩、同国多度津藩、但馬国豊岡藩、丹後国峰山藩)が外様大名として存続して明治維新を迎え、維新後には4家とも華族の子爵家に列せられた。

「京極」家名は、京都にあった四条京極の邸宅に由来していると言われている。

藤原定家の子孫である公家の京極家とは関係がないことから、それと区別するため「佐々木京極氏」と称する事例もある。

しかし、観応の擾乱当時の京極高氏(佐々木道誉)の邸宅は、祇園社領の高橋屋にあり、四条京極の邸宅が確認できるのは道誉の息子・高秀の代となる康暦年間になってからである。このため、高氏(道誉)の存命中に「京極」を称していたか断定出来ず、高秀以降に限定する見解もある。

当初、特に通字(一族内で代々名前に用いる字)として定着しているものはなかったが、京極高氏(佐々木道誉)が鎌倉幕府の執権北条高時から偏諱を賜り以降、歴代当主および一族は代々「高」(たか)を用いるようになる。それからまもなく室町時代中期頃になると、足利将軍家から偏諱を賜う関係によりその慣習がやや崩れかけていたが、京極高清(初め秀綱)が第11代将軍足利義高(のちの義澄)から「高」の字を賜って、再び「高」が通字となり現在に至っている。

鎌倉時代は江北6郡の地頭であり、始祖の京極氏信は、鎌倉幕府評定衆を務めた。跡を継いだ宗綱は、幕府が朝廷に対し天皇の譲位を促した際の使者を務めている。

鎌倉時代末期に当主となった京極高氏(道誉)は、朝廷で検非違使、鎌倉幕府で御相伴衆を務めていたが、元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の綸旨を受けた足利尊氏が倒幕の兵を挙げると協力、建武の新政に加わる。

建武の新政は武士の支持を得られず、建武2年(1335年)に北条時行らが中先代の乱を起こして鎌倉を占拠すると、道誉は尊氏に従い討伐へと向かい、相模川で時行軍の背後を奇襲、勝利に寄与する。

尊氏が鎌倉に入り幕府設立の動きを見せ、朝廷が新田義貞を総大将とする尊氏の討伐軍を発すると、道誉は尊氏軍として、義貞軍と矢作川で戦うが敗れ、手越河原の戦いでは弟の貞満も討たれ、いったんは義貞に下るが、次の箱根・竹ノ下の戦いでは尊氏方として戦い勝利する。


延元3年/暦応元年(1338年)、後醍醐天皇らを吉野に追った尊氏が、京都で持明院統(北朝)の光明天皇から征夷大将軍に任ぜられ室町幕府が開かれると、道誉は功績を評されて引付頭人、評定衆、政所執事、さらに近江・飛騨・出雲・若狭・上総・摂津の6カ国の守護を務めることとなる。

興国元年/暦応3年(1340年)、道誉と長男の秀綱は、家臣が、光厳上皇の弟である妙法院の御所の僧兵に殴打されたことに怒り、御所に火をかけ、妙法院を延焼させる。延暦寺は朝廷と幕府に2人の死罪を求めるが、幕府はこれを放置した。

延暦寺がさらに強く抗議を行った結果、2人は上総国山辺郡へ一時流されるが、その道中は道々で酒席を設け、宿々で美女をもてあそび、流人には見えなかったと言う。

南北朝時代には幕府に従い大覚寺統(南朝)との戦いに参戦、正平3年/貞和4年(1348年)の四條畷の戦いで道誉は2,000余騎を率いて参じ楠木正行軍を撃退するが、その後の戦いで次男の秀宗(高橋秀宗)が討たれる。

正平8年/文和2年(1353年)には侍所所司を務めていた秀綱が、京都を追われた後光厳天皇、足利義詮らを護衛している最中に討たれ、正平17年/貞治元年(1362年)には摂津神崎橋での戦いで、秀綱の子である秀詮兄弟が討たれる。

道誉が亡くなると、家督は当初甲良氏を称していた三男である高秀が継ぐ。

天授5年/康暦元年(1379年)に起こった康暦の政変では、京極高秀は美濃の土岐頼康、斯波義将と共に管領細川頼之の罷免を求めて近江で兵を挙げ、成し遂げる。

高秀の嫡子である高詮は、父から継いだ飛騨の守護職に加え、明徳2年(1391年)に山名氏が蜂起した明徳の乱での活躍により、出雲と隠岐の守護職も任ぜられる。

高詮の代に京極氏は四職の一つとなり、以後の当主は出雲、隠岐、飛騨の守護に代々任ぜられ、侍所所司を務めることとなる。また高詮の弟である高久は、近江の尼子郷を分け与えられ有力庶子家となり、後の戦国大名尼子氏の始祖ともなる。

もうひとりの弟である秀益は、出雲の宍道郷を分け与えられ有力庶子家となり、後の戦国大名宍道氏の始祖ともなる。

京極氏に関しては、一部史料を出典として、室町時代に近江国(江北地域)の半国守護であったとする説がある。だが、京極氏の古文書が納められた『佐々木文書』には出雲・隠岐・飛騨以外の守護補任に関する文書は確認できず、また室町幕府の記録からも、六角氏が近江一国の守護であったことが確認できるため、この説が事実ではないことが判明する。

ただし京極氏が江北地域に広大な所領を有して、守護不入扱いを受けていたこと、守護が利害関係者になっている所領が使節遵行の対象になった場合、隣国の守護が室町幕府よりその国の守護に代わって遵行を命じられるケースがあるが、近江国ではそのような場合には京極氏がその役を任せられるなど、守護に匹敵する待遇を与えられていたこともまた事実であった(京極氏は奉公衆ではなかったが、近江国内においては奉公衆と同様の存在であった)。

一方、守護である六角氏の立場からすれば、京極氏の存在によって近江一国の安定した統治の確立が不可能な状況に置かれており、六角・京極両氏の対立の要因となった。

京極氏が近江守護になるのは、応仁の乱で室町幕府と六角氏が対立、京極持清が六角高頼に代わって守護に任じられた文明元年(1469年)のことであり、祖である佐々木道誉(京極高氏)が務めて以来、約130年ぶりのことであった。

なお、南北朝・室町期に京極氏の影響下にあったのは、本拠地である犬上郡の他、伊香郡・浅井郡・坂田郡の4郡であったが、永享年間までに犬上郡の支配権を失い、江北3郡を持って戦国期を迎え、応仁の乱後には坂田郡上平寺城に本拠地を移している。

なお浅井氏の台頭後は、上平寺城から小谷城の京極丸に移されたと言われているが、古文書から推定される戦国期の京極氏の本拠地は、坂田郡河内(現米原市梓河内)付近とされる。

その後当主は、高光、持高、高数と続き、それぞれ侍所所司として、室町時代に頻発した乱の鎮圧に当たる。

高数の跡を継いだ持清は、応仁元年(1467年)に足利将軍家の家督相続などから生じた応仁の乱で、1万余騎を率いて東軍に属し京都で戦い、翌年からは近江で西軍の六角高頼と戦い優勢を得るが、その最中に病死。

持清の長男の勝秀と次男の政光は既に亡くなっており、孫で勝秀の嫡子と考えられている孫童子丸が当主を継ぐが、わずか1年後に死去、その跡を巡って政経(政高)と高清の間で争いが起きる(京極騒乱)。

はじめは政経が高清を近江から追放、出雲・隠岐・飛騨の守護職を得るが、政経はその後の六角氏との戦いに敗れ、徴税の命令に従わなかった出雲、隠岐の守護代である尼子経久を追放するも、逆に出雲の拠点である月山富田城を奪い返されたと伝わる。

ただしこの問題に関する現存史料の限りでは、徴税の主体は幕府で対象は政経・経久の両方であること、経久追討命令の主体も幕府である(『吉川家文書』所収文明16年3月17日付室町幕府奉行人連署奉書)こと、政経自身も将軍足利義材と対立して一時惣領職・守護職を剥奪された形跡があり(『大乗院寺社雑事記』明応元年12月16日条)、経久が実際に失脚していたのがほぼこの時期であることなどから、政経と経久はむしろ一体化して動いていたと思われ、今後の研究を必要としている。

その後近江で高清との争いに敗れ、追われた政経と長男材宗は、経久と和睦して出雲に拠点を移したと考えられており、永正5年(1508年)に材宗の子である孫・吉童子丸へ京極氏の家督を譲って亡くなるが、吉童子丸の以後の行方はわからず、出雲は尼子経久が事実上領有、戦国大名となる尼子氏の領国となる。

現存する公文書から尼子氏が出雲・隠岐の守護に任命されたことが知られるのは天文21年(1552年)のことであるが、大永4年(1524年)には経久が守護の職務を行っているのは確認できるため、実際には大永年間の段階で守護に任じられていた可能性が高く、その継承も、京極氏(政経系)の断絶に伴う庶流尼子氏への継承が容認される形であったと思われる。

近年ではその時期を更に永正12年(1515年)にまで絞る見解もある。

当主の座を得た高清は、近江にあったが、その後継を巡って次男の高吉を推す高清らと、長男の高広を推す浅井亮政らの間で争いが生じ、高清は亮政らに敗れて追放される。

すぐに高清は亮政と和睦して江北へと戻るが、これを境に江北の支配権は浅井氏に奪われたと考えられている。ただし一介の小国人に過ぎなかった浅井氏による江北支配も順調ではなく、なおしばらくは京極氏を名目上の守護と仰ぐ時代が続いた。

だが、永禄3年(1560年)に浅井賢政の六角氏との断交を機に、京極高吉が復権を画策して六角氏と結び挙兵を企てるが、失敗して江北を追われ、京極氏の江北支配は完全に幕を閉じた。


高広の子である京極高成(たかなり)は、御供衆として足利義昭近習となった。再興された京都の室町幕府が備後・鞆に移されると、将軍家に従い鞆に移り、毛利輝元客将として働いた。やがて将軍家が関白・豊臣秀吉の命により畿内に戻ると、それに従って戻り、最後まで義昭に仕えた。

また高成の息子は、義昭の1字を受けて京極昭成(あきなり)と名乗っている。

義昭没後は、高成・昭成父子共に、小早川家(隆景(毛利輝元の叔父)・秀秋(秀詮))に仕えたが、江戸時代初期に秀詮が嗣子なくして没したために小早川家が改易されると流遇した。

高吉の子・高次は、初め織田信長に仕えるが、天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると光秀に属して、山崎の戦いで光秀を討った羽柴秀吉(豊臣秀吉)からの追及を受ける。

しかし姉妹の竜子が秀吉の側室となったことにより、許されて天正12年(1584年)に近江高島郡2,500石を与えられる。加増を重ね、天正14年(1586年)には高島郡5,000石、翌年の九州征伐の功により、近江大溝城1万石で大名、天正18年(1590年)の小田原征伐の功により近江八幡山城2万8,000石、文禄4年(1595年)には、武功により近江大津城6万石へと封じられる。

一方、弟である高知は、当初から秀吉に仕え、天正19年(1591年)に近江蒲生郡5千石、文禄2年(1593年)に信濃国伊那郡6万石、翌年には10万石に加増される。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、初め西軍に属するが、途中から東軍へと寝返り、大津城に篭もる(徳川家康との密約があったとされている)。そして攻め寄せた西軍の大軍勢1万5,000を相手取り、激しい篭城戦を行い、ついに攻め手を関ヶ原へと向かわせなかった(大津城の戦い)。

功により高次は、戦後家康から若狭一国を与えられ、若狭後瀬山城8万5,000石へと加増される。翌年に高島郡7,100石も加増され9万2,000石を領有、小浜藩の成立に繋がった。

秀吉の死後は兄の与力大名となっていた弟の高知も、兄の家老と共に家康に従い、東北に出兵して関ヶ原の戦いにおいても最前線で功を挙げ、丹後1国を与えられ国持大名となり丹後守を称すことを許され、丹後宮津城12万3,000石を領有、宮津藩の成立に繋がった。
【投稿日】2026/06/03 18:03:46
【投稿者】匿名さん
京極派は、鎌倉中期から室町初期にかけての和歌流派の一つ。

「和歌の家」としての京極派は、藤原北家御子左流に属し、御子左家嫡男二条為氏の庶弟京極為教と、その子為兼に始まるが、実質的には為兼によって和歌の流派としての京極派は生まれた。

御子左嫡流で、大覚寺統(のち南朝)と結びついた二条派に対し、為兼は伏見院の歌道師範として迎えられたのを契機に、持明院統(のち北朝)宮廷において歌壇を築き、斬新な歌風を流行させた。

実感を尊び繊細な感覚的表現による歌は鎌倉時代末期の沈滞していた当時の歌壇に新鮮味を与えたが、その奇抜で型破りな表現によって二条派からつよい非難を浴びることになった。為兼の歌論書として『為兼卿和歌抄』がある。

京極派歌壇には、(1)歌の家としての京極家(および当時はまだ一家を成すにいたっていなかった冷泉家)、(2)京極派歌風を信奉する歌人たちの集まり、(3)伏見院宮廷における文学サロンの三つの面があり、それぞれが互いに重なりあいつつ全体として「京極派」と呼ぶべきものをかたちづくっている。

通常鎌倉期のそれを前期、南北朝期以降のそれを後期と呼んで区分しているが、前期京極派においては京極為兼、伏見院、久明親王、永福門院、京極為子(従二位為子)、冷泉為相(娘が持明院統の久明親王に嫁す)、北畠親子らが主要な歌人として活躍し、十三番目の勅撰集『玉葉和歌集』(伏見院下命、為兼撰)が編まれた。

後期京極派においては、永福門院、花園院、光厳院らが主要な歌人として活躍し、十七番目の勅撰集『風雅和歌集』(花園院下命、光厳院親撰)が編まれたが、観応の擾乱によって光厳院ら持明院統の要人が南朝側に監禁された結果、持明院統宮廷が大きな打撃を受け、そして光厳院が監禁されている間に持明院統を継いだ後光厳院が二条派を重んじたため、思わしい後嗣を得ないままに断絶した。

中世・近世においては高く評価されることがなく、長らく埋もれたままになっていた京極派ではあるが、近代に入ってから再評価が行われ、特に折口信夫や土岐善麿がその歌風をつよく称揚した。

戦後に入って岩佐美代子らによる研究が進み、その全貌が徐々にあきらかになりつつある。
【投稿日】2026/05/07 04:29:59
【投稿者】匿名さん
東京都大田区の表札にて確認。
【投稿日】2026/04/05 11:11:00
【投稿者】Solid-State Lunatic Shadows!!さん
神奈川県横浜市戸塚区です
【投稿日】2025/07/07 09:45:01
【投稿者】千畝さん
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