保科
【読み】ほしな,ほか,やすしな,たもか,たもなし
【ローマ字】
【全国順位】
1,270位
【全国人数】
およそ13,300人
由来解説
最終更新:2026/03/28 00:54:21 最終更新者:匿名
保科さんの多い地域 TOP5
| 都道府県 | 人数 |
|---|---|
| 東京都 | およそ2,200人 |
| 長野県 | およそ1,700人 |
| 千葉県 | およそ1,300人 |
| 神奈川県 | およそ1,200人 |
| 埼玉県 | およそ1,100人 |
| 市区町村 | 人数 |
|---|---|
| 千葉県香取市 | およそ340人 |
| 新潟県長岡市 | およそ300人 |
| 長野県伊那市 | およそ260人 |
| 長野県長野市 | およそ240人 |
| 新潟県新潟市秋葉区 | およそ220人 |
保科さんの比率が多い地域 TOP5
| 都道府県 | 比率 |
|---|---|
| 長野県 | 0.0841% |
| 山形県 | 0.07926% |
| 新潟県 | 0.04745% |
| 島根県 | 0.0293% |
| 宮城県 | 0.02272% |
| 市区町村 | 比率 |
|---|---|
| 山形県西置賜郡小国町 | 1.613% |
| 長野県上伊那郡宮田村 | 1.284% |
| 長野県上水内郡小川村 | 1.195% |
| 長野県北佐久郡立科町 | 0.787% |
| 北海道紋別郡滝上町 | 0.686% |
保科さん有名人アクセスランキング TOP10
| 名前 | 生年月日 | ジャンル | 備考 |
|---|---|---|---|
| 保科 正富 | 1732年 6月 7日 | 歴史 | 上総飯野藩6代藩主 |
| 保科 ヨウ | 1591年 | 歴史 | 貞松院、出石小出吉英正室、保科正直娘 |
| 保科 正賢 | 1665年 11月 14日 | 歴史 | 上総飯野藩3代藩主 |
| 保科 正静 | 1653年 10月 23日 | 歴史 | 江戸中期の旗本寄合席、旗本保科家2代当主 |
| 保科 正純 | 1677年 | 歴史 | 江戸中期〜後期の旗本、旗本保科家3代当主 |
| 保科 正勝 | 1714年 | 歴史 | 江戸後期の旗本寄合席、旗本保科家第4代目当主 |
| 保科 正徳 | 1775年 9月 22日 | 歴史 | 上総飯野藩8代藩主 |
| 保科 正丕 | 1801年 7月 13日 | 歴史 | 上総飯野藩9代藩主 |
| 保科 正敬 | 歴史 | 幕臣、陸軍軍人(大佐) | |
| 保科 行遠 | 歴史 | 諏訪神氏保科氏祖、四郎大夫 |
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【戦国武将・大名の家紋】
| 保科さん みんなの名字の由来 |
|---|
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保科氏(ほしなし)は、武家・華族。 平安時代に信濃国高井郡保科に発祥した豪族、源平合戦時には平家物語に”保科党三百余騎”として登場する武士団に発展した。 江戸時代初期に、二代将軍秀忠の庶子・正之を養嗣子として迎えた保科正光は、諏訪神党として南信濃高遠に移った家で、保科正之の子(三代目藩主)の代に松平に改姓、親藩会津松平家となる。 一方、正光の弟正貞は別家を立て、保科姓譜代大名として廃藩置県まで続く。明治にいたり両家とも華族の子爵家に列す。 清和源氏井上氏一族と伝えられる。 氏族名の由来ともなった信濃国高井郡保科(現長野県長野市若穂保科)に広がる保科荘は、古来からの荘園で、保科氏の祖は長田御厨の荘官を務めたとされる。 このことより、古代氏族の他田部氏の系統とする説がある。 また「信濃史源考」では、他田氏と同祖とされる諏訪氏庶流としている。 若穂保科の広徳寺寺歴では、平安時代に川田一帯を支配していた保科氏は一旦絶え、井上氏から分かれた井上忠長が、保科氏を再興したとしている。 長元元年(1028年)の平忠常の乱を平定し、東国に勢力を扶植した源頼信の二男頼季が、信濃国高井郡井上に住して、井上氏が北信濃に勢力を拡大する過程で、その家人となって武士団化したと思われる。 治承・寿永の乱では、井上氏の総領井上光盛に従い源氏方として活躍、『平家物語』に光盛に率いられた「保科党三百余騎」として登場する(星名党とも記され、初期の横田河原の戦いでは源氏方ではなく、敵方の越後平氏城氏の軍勢の中に星名権八の名がある)。元暦元年(1184年)7月10日、井上光盛が源頼朝に誅殺された際に捕らわれた侍に「保科太郎」がいるが、同月25日に許され、御家人に取り立てられている。このことは比企朝宗が奉行した(『吾妻鏡』)。 また承久の乱に「保科次郎」父子が出陣したことが知られる。 鎌倉時代から南北朝・室町時代における保科氏の動向は史料が少なく、確かなことは判明しておらず、諏訪大社の祭祀記録である「御符礼之古書」などに保科姓が散見される程度である。 しかし建武2年(1335年)には、中先代の乱において、北条方残党を擁立する諏訪氏や、滋野氏に同調した保科弥三郎が、北条氏知行地に属していた四宮左衛門太郎(諏訪氏の庶流と伝えられる武水別神社神官家)・関屋氏(皆神山神職)・夏目氏らと共に、室町幕府の守護所(千曲市小船山?)を襲い、青沼合戦を引き起こして敗走する。 そして足利方の守護小笠原貞宗や、市河氏らの追撃を受けて、八幡河原、福井河原、四宮河原を転戦した。だが鎌倉において足利方が勢いを盛り返し、保科氏らは清滝城に篭城して抵抗したが攻略された。 守護方は四宮氏を滅ぼして反転。この後牧城へ向けて攻撃を加えている。その後の保科氏は、諏訪氏らとともに南朝勢として活動している。 戦国時代になると、南信濃の高遠城主諏訪頼継の家老として「保科弾正」(あるいは筑前守、保科正則)の名が登場する。 本来は北信濃の霞台城を本拠とする保科氏が、南信濃に移った時期や理由などについては、青沼合戦で敗走潜伏した、あるいは長享年間に村上顕国との抗争に敗れて高遠に遷移したと見る向きもあるが、今日も真相は不明である。 ただし、鎌倉時代以来諏訪神党の一つに数えられたことから、諏訪氏と密接な関係が築かれていたと考えられ、正則の跡を継いだ保科正俊は、高遠氏家臣団では筆頭の地位にあったとされる。 天文21年(1552年)に旧主の高遠氏が、武田氏の信濃侵攻により滅亡すると、正俊以下の旧家臣団は武田氏傘下となる。 正俊は軍役120騎を務める高遠城将として、数々の戦いで軍功を挙げ(高坂逃げ弾正、真田攻め弾正と保科槍弾正の武田軍三弾正と謳われた)、跡を継いだ嫡男の正直も高遠城将として、武田氏滅亡時の高遠城主仁科盛信と共に奮戦している。 正直は高遠城落城の際に落ち延び、本能寺の変で信濃の織田勢力が瓦解したのち、後北条氏を後ろ盾に高遠城奪還に成功。 後北条氏と徳川氏が信濃の旧織田領を巡って対立すると、徳川方に与し、高遠城主としての地位を安堵される。 正直の子正光は、小牧・長久手の戦い・小田原征伐に出陣、徳川氏の関東入府に際して下総国多胡で1万石を与えられ、大名に列した。 関ヶ原の戦いの後に、旧領に戻って高遠城主として2万5千石を領した。さらに大坂の陣での戦功により3万石に加増される。 正光の養嗣子として家督を相続した保科正之は、2代将軍徳川秀忠の庶子で、寛永13年(1636年)に17万石加増されて出羽国山形藩主(20万石)となり、さらに寛永20年(1643年)に3万石加増されて陸奥国会津藩(23万石)に移封、元禄元年(1696年)に正容の代に松平姓の使用が許された。 以降同藩は親藩大名として幕末まで存続したが、明治元年(1868年)に容保の代に王師に反逆して改易。 明治2年に容大に陸奥国斗南藩3万石が与えられたことで家名再興を許され華族に列し、版籍奉還後の明治3年に斗南藩知事に転じたのを経て、明治4年の廃藩置県を迎えた。 版籍奉還の際に定められた家禄は現米で738石。 明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄の代わりに支給された金禄公債の額は1万8456円60銭1厘(華族受給者中242位)。 明治17年(1884年)に華族令施行で華族が五爵制になると容大は旧小藩知事として子爵家に列した。 この家系の詳細については会津松平家を参照のこと。 一方、正之の入嗣により世子の座を廃された正貞(正光の実弟)は、別家を興して上総国飯野藩主(1万7000石)に封じられた。延宝5年(1677年)の加増で都合2万石となった。以降廃藩置県まで同地に在封。 最後の藩主正益は戊辰戦争で朝廷に恭順。同族の松平容保の王師への反逆に連座、一時入洛を禁じられるも、後に許され、戊辰戦争で賊軍に与して改易となった上総国請西藩の旧領を預けられた。 明治2年に版籍奉還で飯野藩知事に任じられるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた。 版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で750石。明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は、2万6761円41銭8厘(華族受給者中179位)。 明治前期の頃の護久の住居は東京市芝区愛宕下町にあった。家扶は進藤健造。 明治17年(1884年)に華族が五爵制になると、正益は旧小藩知事として子爵家に列した。2代子爵保科正昭は帝室林野局や朝鮮総督府に官僚として勤務した後、貴族院の子爵議員に当選して務め、院内会派研究会に所属した。 同保科子爵家の邸宅は昭和前期に東京市牛込区市谷中之町にあった。 正貞の外孫で当初正貞の養子となっていた正英も、分家して2500石の旗本となる。同家より山田奉行の保科正純や幕府陸軍歩兵頭並やパリ万国博覧会使節団を歴任し、明治以降には陸軍に入隊して歩兵大佐まで昇進した保科正敬(俊太郎)が出ている。 |
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【投稿日】2026/06/07 22:20:14 【投稿者】匿名さん |
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【都道府県】東京都 他に、「丸に梶の葉」の家紋の例もあり。
|
| 【投稿日】2018/10/11 22:24:22 【投稿者】めとろさん | |
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