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一柳

【読み】いちやなぎ,ひとつやなぎ,いちりゅう,いちやぎ,かずやなぎ,かずやぎ,ひとやなぎ
【全国順位】 2,009位
【全国人数】 およそ7,400人

由来解説

大名家の一柳氏は、越智河野氏流。
宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏宇多源氏佐々木氏流。
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
などにみられる。
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最終更新:2026/01/12 16:26:04  最終更新者:匿名


一柳さんの多い地域 TOP5

都道府県人数
愛知県 およそ1,600人
神奈川県 およそ1,300人
東京都 およそ820人
岐阜県 およそ450人
大阪府 およそ420人
市区町村人数
神奈川県逗子市 およそ400人
愛知県名古屋市中川区 およそ270人
愛知県江南市 およそ260人
神奈川県横須賀市 およそ150人
岐阜県郡上市 およそ130人

一柳さんの比率が多い地域 TOP5

都道府県比率
愛媛県 0.02744%
岐阜県 0.02342%
愛知県 0.0222%
高知県 0.01795%
神奈川県 0.01398%
市区町村比率
神奈川県逗子市 0.673%
長野県北安曇郡松川村 0.508%
岐阜県安八郡輪之内町 0.35%
愛媛県上浮穴郡久万高原町 0.329%
東京都新島村 0.328%
※詳細は地図またはリンクをクリック

一柳さん有名人アクセスランキング TOP10

名前 生年月日 ジャンル 備考
一柳 頼邦 1696年 1月 12日 歴史 伊予小松藩4代藩主
一柳 頼明 1858年 8月 23日 歴史 伊予小松藩9代藩主、知藩事
一柳 直末 1553年 歴史 戦国~織豊期の武将、黄母衣衆、一柳氏3代当主
一柳 頼紹 1822年 歴史 伊予小松藩8代藩主、初代知藩事
一柳 直徳 歴史 宇和島伊達氏流一柳氏
一柳 満喜子 1884年 3月 18日 その他 キリスト教教育者、近江兄弟社学園長、小野一柳末徳子爵三女、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ夫人
一柳 末周 1791年 9月 5日 歴史 播磨小野藩8代藩主、一柳末英三男
一柳 紹念 1860年 10月 12日 歴史 子爵小松一柳宗家初代
一柳 頼親 1791年 2月 13日 歴史 伊予小松藩7代藩主
一柳 亜矢子 1980年 10月 26日 その他 NHK アナウンサー
※上記は直近一週間のアクセス数Top10です。すべての一柳さん有名人は以下から確認できます。

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【戦国武将・大名の家紋】


丸に釘抜き
一柳さん みんなの名字の由来
一柳氏(ひとつやなぎし)は、武家、河野氏の庶流と伝える美濃国出身の氏族であり、一柳直末・直盛兄弟が豊臣秀吉に仕えて大名となった。

江戸初期には直盛の3人の子が大名となるが、そのうち2家(伊予小松藩、播磨小野藩)が大名として明治の廃藩置県まで残り、華族の子爵家に列した。

一柳直盛は豊臣秀吉に仕え、尾張黒田3万5000石を領する大名に出世し、1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康方に属したことで、翌年に伊勢国神戸藩5万石に加増。

1636年に伊予国西条藩6万3000石に移封されたが、直盛の死後に遺領は3子に分割された。

西条3万石は長男直重が相続したが、その子の一柳直興の代の1665年に勤仕怠慢を理由に改易。

播磨小野を相続した直盛の次男直家は、みずからの知行と合わせて2万8600石を領すが、1643年の直家の病篤で末期養子を要請したことで1万石に減封。その後1万石の小野藩主家として廃藩置県まで続いた。

伊予国小松を相続した直盛の三男直頼の家系も、1万石の小松藩主家として廃藩置県まで続いた。

明治維新後、旧小野藩主家と旧小松藩主家両方とも華族の子爵家。


『寛政重修諸家譜』が記すところによれば、一柳家初代である宣高は、伊予国の大名である河野通直(弾正少弼)の子で、大永年間(1521年 - 1528年)に父が没したために伊予国を去って、美濃国厚見郡西野村(現在の岐阜県岐阜市西野町)に移ったという。

衰微した身の上で祖先の名を顕すことをできないことを恥じた宣高は、「土岐の郡司」に謁した際「河野」に代わる称号(名字)を請い、ちょうど蹴鞠の庭の柳がひときわ鮮やかであったことから「一柳」を氏とすることを提案されたという話が残る。

ただし、この逸話があったのは宣高の祖父の代であったとする説や、あるいは宣高の父は通直とは別の人物であるといった説もあって、河野氏との具体的な関係は不明。

一柳氏の起源については、尾張国愛知郡にあった伊勢神宮領の一楊御厨(一楊荘、「一柳」とも記す。現在の名古屋市中川区・中村区付近)との関係を想定する意見もあり、古くは新井白石が『藩翰譜』で提示する。

伊予の越智姓河野氏との関係については仮冒という見方もあるものの、美濃土岐氏が伊予国に所領を持っていた関係で河野氏の庶流が美濃に入ったともされ、また近隣の稲葉氏や林氏なども河野氏末裔を主張していることから、何れにせよ何らかの形で伊予河野氏と美濃の武家の間に関係があったものとみてよいだろう。

岐阜市西野町にある本願寺岐阜別院は宣高の屋敷跡という。家伝によれば宣高の子である一柳直高は、稲葉一鉄の姪(姉の娘)を妻とした。快川紹喜の法嗣で妙心寺住持となった南化玄興も一柳家出身といい、宣高(太郎右衛門)の子とする系図がある。


宣高の孫(直高の子)の一柳直末・一柳直盛兄弟は、豊臣秀吉に仕え、特に直末は天正元年(1573年)に近江国長浜村に250石の所領を与えられ、秀吉の播磨国平定に戦功をたてて黄幌衆に列し、兵糧奉行・普請奉行を務める。その後、天正11年に賤ケ岳の戦い、天正12年に小牧長久手の戦い、根来・雑賀攻め、同年の四国平定などに従軍し、同年9月に美濃国大垣城主となり、徐五位下伊豆守に叙任し、2万5000石を領した。

同17年に同国軽海西城主5万石に転じ、同18年(1590年)の小田原征伐のときに、緒戦の山中城攻めで流れ弾にあたって戦死。後年、一柳一族はこの直末の顕彰をたびたび行っている。

弟の直盛(監物)が家督し、秀吉から尾張国黒田城3万石を与えられ、天正19年には従五位下監物に叙任。

文禄元年(1592年)1月11日に美濃国本巣郡内に5000石加増。朝鮮出兵では軍船の造船に従事した。


直盛は関ヶ原の戦いで東軍に付き、岐阜城攻めに参陣。大垣城と佐和山城の間の美濃国長松に布陣して通路を遮断した戦功により、1万5000石加増され伊勢国(三重県)神戸藩5万石に入封。

寛永13年(1636年)に江戸城外堀石垣の普請役を務めた功により、さらに1万6000石余を加増され、伊予国西条藩主6万8600石となる。

祖先河野氏の故地である伊予への移転を望んで、これが認められたとされるが、同年に新領地に赴く途中の大坂で病没。

嫡男の直重が家督し、父の遺領の内3万石を継ぎ、2万8600石は弟直家、1万石は弟直頼が相続した。昭和初期に『一柳家史紀要』を編纂した一柳貞吉(後述)は、大名となった直盛の息子3人の家を「一柳三家」と称する。

宗家の伊予西条藩主直興が西条藩3代藩主となったが、しかし京都女院御所造営助役を任じられた際の上京の遅れ、参勤交代の際の病気遅参届けの遅れ、不行跡などを咎められ、寛文5年(1665年)に改易。

5000石を分知されて旗本になっていた弟の直照の家系が名跡を継いで旗本として存続した。


寛永13年に直盛の次男直家が、父の遺領の内播磨国の加東郡や伊予国宇摩郡や周敷郡において2万8600石を分与され、播磨国小野藩主となった。

寛永20年(1643年)の直家の病気で直次(小出吉親次男)を養子としたが、末期養子であるとされて、1万8600石を没収されて播磨加東郡1万石のみ、以降廃藩置県までその石高で小野に在封。

最後の藩主末徳は、慶応4年(1868年)の戊辰戦争で官軍に参加、北越方面に出兵。
維新後、華族の子爵家に列す。


寛永13年に直盛の三男直頼が、父の遺領の内伊予国の周敷郡・新居郡において1万石を分与され、伊予国小松藩主となった。以降廃藩置県まで同時に在封。

最後の藩主頼紹は、慶応4年(1868年)の戊辰戦争で官軍に参加、越後・出羽方面に出兵、鶴岡城攻めに参戦。

維新後、華族の子爵家に列す。


最後の藩主の一柳末徳は、明治2年(1869年)6月24日の版籍奉還により小野藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県に伴う罷免まで藩知事を務める。また、明治2年6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると小野一柳家も華族に列した。

版籍奉還の際に定められた家禄は現米で528石、明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は、1万9439円42銭5厘(華族受給者中232位)。
明治前期の末徳の住居は東京府麻布区麻布一本松町にあった。当時の家令は、原田敦明。当時の政固は宮内省七等出仕。

明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事として末徳が子爵に列せられる。

末徳の三女の満喜子は、アメリカ出身の宣教師・建築家のウィリアム・メレル・ヴォーリズと結婚し、ヴォーリズは一柳米来留と改名した。

一柳末幸の代の昭和前期に小野一柳子爵家の邸宅は兵庫県明石市大蔵谷にあった。



最後の小松藩主一柳頼紹は、明治2年(1869年)6月の版籍奉還により小松藩知事に任じられたが、翌月に死去。長男の頼明が家督相続し、小松藩知事に就任、7月14日の廃藩置県に伴う罷免まで藩知事を務めた。

また、明治2年6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると小松一柳家も華族に列した。

版籍奉還の際に定められた家禄は現米で483石。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は、1万7863円89銭(華族受給者中252位)。

明治7年に頼明が隠居し、弟の紹念が家督相続。明治前期の紹念の住居は東京府麻布区麻布一本松町にあった。

明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事として、紹念が子爵に列せられた。

一柳直徳の代の昭和前期に小松一柳子爵家の邸宅は東京市世田谷区上馬町にあった。
【投稿日】2026/01/12 16:36:38
【投稿者】匿名さん
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一柳さん みんなの家紋のはなし
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