田沼

【読み】たぬま,たまぬ
【ローマ字】
【全国順位】 1,715位
【全国人数】 およそ9,000人


由来解説

相良藩主家は清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏新田氏流がある。
②ほか中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷流(現栃木県である下野)。
などにもみられる。

最終更新:2026/06/13 18:54:21  最終更新者:匿名


田沼さんの多い地域 TOP5

都道府県人数
埼玉県 およそ3,100人
東京都 およそ1,600人
群馬県 およそ1,100人
神奈川県 およそ710人
栃木県 およそ550人
市区町村人数
埼玉県羽生市 およそ360人
埼玉県加須市 およそ320人
埼玉県鴻巣市 およそ310人
埼玉県熊谷市 およそ260人
埼玉県深谷市 およそ240人

田沼さんの比率が多い地域 TOP5

都道府県比率
群馬県 0.05815%
埼玉県 0.04254%
栃木県 0.0294%
岩手県 0.01705%
茨城県 0.01679%
市区町村比率
埼玉県羽生市 0.681%
青森県三戸郡田子町 0.624%
群馬県邑楽郡板倉町 0.498%
茨城県稲敷郡河内町 0.42%
群馬県邑楽郡大泉町 0.354%
※詳細は地図またはリンクをクリック

田沼さん有名人ランキング TOP10

名前 生年月日 ジャンル 備考
田沼 忠千代 1865年 6月 13日 歴史 相良田沼家12代、瀧脇信廣
田沼 意致 1741年 歴史 江戸中期の幕臣(旗本)
田沼 意知 1749年 歴史 江戸中期の遠江相良藩世嗣、若年寄
田沼 意信 1782年 歴史 陸奥下村藩3代藩主、田沼家4代
田沼 意誠 1721年 歴史 江戸中期の幕臣、旗本、田沼意次弟
田沼 貢二 歴史 相良田沼氏16代当主
田沼 意斉 1855年 7月 歴史 上総小久保藩2代藩主、知藩事、相良藩田沼家9代
田沼 意行 1686年 歴史 江戸中期の紀州藩士、旗本
田沼 意次 1719年 9月 11日 歴史 旗本、老中、遠江相良藩初代藩主、相良藩田沼家初代、旗本田沼意行長男
田沼 道雄 歴史 相良田沼氏17代当主
※上記は直近一週間のアクセス数Top10です。すべての田沼さん有名人は以下から確認できます。

※ランキングや人数、読み、解説などの名字データをご利用される場合は、「参考資料 名字由来net」「名字由来netより引用」「出典 名字由来net」などと記載、そしてURLへリンクしていただき、自由にご活用ください。
※引用元の記載なく無断での商用利用(ニュースサイト,Youtubeなどの動画,まとめサイトなど含みます)は利用規約に反するため、問い合わせ窓口にご連絡頂くか、又は「参考文献 名字由来net」のクレジット表記とURLリンクのご協力をよろしくお願いいたします。

田沼さん みんなの名字の由来
田沼氏(たぬまし)は、武家・華族・平民だった日本の氏族。

江戸時代中後期に幕府老中に出世した田沼意次が出、譜代大名家となり、明治維新後に華族の子爵家に列したが、1920年(大正9年)に爵位を返上、官報によれば華族令21条により失爵(後述)。

元は下野国安蘇郡佐野庄に土着した佐野氏(佐野成俊)で、その分家で安蘇郡田沼村(現:栃木県佐野市田沼町)を領した佐野重綱(成俊から数えて6代目)が、1224年(元仁元年)に田沼氏として家を興したとされる(ただし大石慎三郎は、後世の田沼意知の暗殺原因の1つに佐野氏系図の未返還が原因だった説があることに触れ、この出自が必ずしも事実ではない可能性を指摘している)。

以来、鎌倉幕府に仕え鎌倉に在住していたが、3代重行の時に命により上野国世良田に行き、新田義貞に属す。

その後、5代重隆の時に鎌倉公方足利満兼に仕えて鎌倉に住み、その子で6代目光房の時に本国に戻る。

なおこの間、4代重信の時に田沼千本荘を領して千本と称していたが、光房が本国に戻った時に田沼に戻している。

光房には子がいなかかっため、新田氏の支族高瀬氏より重綱を養子にとり、7代目とする。新田氏が清和源氏の系統であることから、この頃から田沼氏は清和源氏を名乗るようになった。

地方の一小族として、家祖以来約400年間、所領は下野・上野・武蔵・下総・相模・甲斐と関東近辺を点々とする。

ただし家祖が創建した田沼村の西林寺を変わらず菩提寺とし、この時期の家人の多くは同寺に葬られている。

戦国期には上杉氏や武田氏に仕え、武田氏滅亡後はしばらく信州などを放浪していたという。

12代目吉次は鉄砲の妙手と謳われ佐野氏に仕えていたが、1615年、大坂の陣と前後して、当時鉄砲組が有名であった紀州藩にその才を請われ、主家の同意を得て転属。

吉次以降、吉重・義房・意行と4代に渡って紀州藩に仕える。身分は足軽(鉄砲足軽)とされるが、吉次と吉重の戒名は居士号であり、郷土史家の後藤一郎は高い士分であった可能性を指摘している。


田沼家の当主で事跡が明白になるのは15代意行からであり、宝永2年(1705年)に兄たちの相次ぐ死去によって徳川吉宗が第5代藩主になった折、奥小姓として藩に勤仕する。

その後、享保元年(1716年)に吉宗が将軍に就任した際に将軍小姓として召されて、幕府旗本に列した。

最終的には小納戸頭取などを務め家禄は600石となる。

意行は嫡男が生まれぬことに悩み、七面大明神に帰依して息子・龍助(後の意次)を授かったことから、その謝意のために家紋を七曜星にしたという。

次代意次は幼少から西丸小姓として後の9代将軍家重に仕える。その才幹と共に、障害のあった家重の取次(御側御用取次)として重用、1759年(宝暦9年)に遠江相良藩1万石(最終的には5万7000石まで加増、さらに築城を許される)で大名となる(相良藩田沼家)。

家重の死後も10代将軍家治に重用され、1767年に側用人、さらに1769年に側用人兼務で老中格、最終的に1772年に老中となる。

老中として権勢を揮ったとされ、田沼家は全盛を迎えるが、1784年に嫡男・意知が暗殺されたのを機に権勢に陰りが見え、1786年に失脚。

この側用人就任から失脚までの幕政を専横したとされる期間を田沼時代と呼ぶ。


田沼氏は1万石に減封、陸奥下村藩へ転封となる。

その後、第5代下村藩主・意正(意次の四男)の時に大番頭、続いて若年寄と幕府要職に登用され、最終的に、その功績が認められて1823年(文政6年)に相良への帰封が適い、相良藩が再立藩される。

意正はもともと、意次が権勢を誇った時代、老中かつ三万石の大名にまで出世した沼津藩主水野忠友の養子として、幕府重臣・水野家に入っており、意次の失脚で絶縁された経歴を持つ。意正の出世は、意正に代わり忠友の養子となった水野忠成が幕政を掌握した後に行われている。

意正は田沼家を立て直したために、子孫から「中興の主」として厚く祀られたという。以降の歴代当主は若年寄などの幕府要職を務める。


明治維新時の当主田沼意尊は、1868年(明治元年)に徳川家達を藩主とする駿河国静岡藩が立藩されたのに伴い、上総小久保藩へ移封。

1869年(明治2年)6月17日に公家と大名が「皇室の藩屏」として統合されて華族制度が誕生すると、意尊も旧大名として華族に列したが、同年12月25日に死去。

意尊に男子はなく、岩槻藩知事大岡忠貴の弟・金弥(後に意斉)が養子に入って家督を継いだ。意斉は、1870年(明治3年)に藩知事に転じ、1871年(明治4年)の廃藩置県まで務めた。

版籍奉還の際に定められた家禄は現米で440石。

1873年(明治6年)11月に意斉は田沼家と離縁したため、意尊の娘智恵が暫定的に女戸主となった。

1874年(明治7年)11月に智恵の夫となった忠千代(伊達宗城五男)が相続するも、1878年(明治11年)6月に忠千代と智恵が離婚となったため、忠千代は田沼家を離籍し、再び智恵が女戸主となる。智恵は1880年(明治13年)12月11日、伏原宣諭次男・望と再婚、望が田沼家に入り婿する形で田沼家を継いだ。望以降の田沼家は男系では事実上、伏原家の分家筋となっている。

1876年(明治9年)8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は1万6241円41銭5厘(華族受給者中270位)。明治前期の望は侍従試補をしており、住居は東京市本所区本所松井町にあった。

1884年(明治17年)に望が旧小藩知事として子爵を授けられる。その後、望は貴族院の子爵議員に当選して務めた。

望が1900年(明治33年)8月14日に死去した後、その長男で東京帝国大学法科大学を卒業した正(1875~1952)が襲爵したが、1920年(大正9年)6月15日に背任罪の確定判決により華族令21条により失爵している。報道によれば日光東照宮に出仕していた田沼正(当時36)と酒井忠弘(同52)ほか5名が数年に渡り拝観料及び賽銭の一部を横領、酒色に費していたとして検挙、裁判で有罪が確定したためであるという。
【投稿日】2026/06/13 18:53:21
【投稿者】匿名さん
みんなの名字の由来 投稿
「みんなの名字の由来」に書きこむには、ログインが必要です。
 
同姓同名検索はこちら
田沼さんと相性のいい座席を診断!
田沼さんと気になるあの人の相性を診断!
個別に家系図を知りたい方はこちら
スマートフォン専用の検索はこちら
田沼さんプレミアム会員とは
すでにプレミアム会員の方へ
田沼さん みんなの家紋のはなし


七曜
【都道府県】静岡県

江戸幕府老中、田沼意次の田沼家(遠江国相良藩主)の定紋。

【投稿日】2025/05/25 21:21:34 【投稿者】ちば子さん

 

※名字の順位・人数は2026年04月時点の政府発表統計および全国電話帳データを元にルーツ製作委員会が独自に算出したものです。
※名字由来netは政府発表統計や独自調査により得られたデータから、日々変化する日本人の名字の人数を日本で唯一算出しております。
※名字の推計人数は四捨五入して掲載しているため、各都道府県の合計人数と全国人数は一致しない場合があります。また、推計人数が少ない名字につきましては、一律「およそ10人」としています。
※名字のローマ字読みにつきましては、「ヘボン式」の表記を採用しております。
※名字の専門企業が算出している日本唯一の名字オリジナルデータですので、ご利用になりたい法人様やマスコミの方々はこちらよりお気軽にご相談ください。

※解説欄に「詳細不明」等と記載されている場合でも、「読み」や「有名人情報」が更新された際「新着・更新」名字欄に掲載されます。

※名字の情報を欲しい方は「情報求む」ボタンを押してください。「情報求む」欄には最新10件のみ表示されますので、定期的に確認いただき更新されることをお勧めします。
名字について詳しい情報をお持ちの方は、「名字の情報を送る」より名字の情報をお書きのうえ、送信ください。お送りいただいた情報はルーツ製作委員会にて精査し、名字の解説として掲載させていただくことがあります。

名字検索

次に検索したい名字を入力してください。

*
 

最近検索された名字

桃原  信朝  薬師  明照  並波  乳井  奥塩  狭場  千野  上戸鎖  脇山  亥角  岩本  田河  永野  桧高  木角  舛屋  南竹  木枝  大坪  浮気  月橋  転石  槇元  加鳥  冨山  杁山  市花  諫山  香取  安西  矢加部  前園  城森  四十洲  立喰  廣咲  九津見  印束  五味  極壇  下志万  是行  蛭間  元恒  工藤  宮舘  安本  貝塚  納山  愛合  開坂  板庇  沖瀬  夲田  倭文  芋原  飛騨  安田  金床  大嵜  篠崎  夏秋  並里  柏岡  龍野  浜森  由布  加久見  二唐  肥尾  春藤  矢亀  鴻森  篠間  石塚  新出    枦段  末高  白龍院  山科  梁場  弘沢  太田部  阪田  川尻  常陰  侘美    倉辻  煮玉  田處  下牛尾  川関  濱州  今垣  明野  能堀 

家紋検索

調べたい家紋の名前や戦国武将・大名の名字を入力してください。

 
 

約30万種あるとされる日本人の名字の中で
6月26日最も幸運な名字はこちら
名字別の運勢はこちら

■今評判の名字ランキング
いろいろな名字・珍しい名字ランキングはこちら ベスト・オブ・名字はこちら 年間 名字アクセスランキングはこちら 上・下半期アクセスランキングはこちら 今日誕生日の有名人一覧へ 世界の名字ランキングはこちら

当サイトは多くのユーザー様に広くご自分や身近な方の名字の由来を知って頂くことを目的としておりますので、「情報の流用や加工を目的とした不正なアクセス」「他の文献・サイト等の内容を無断転載する」「不正なIPアドレス」 「同一人物が他人を装い、いくつものアカウントを使用し、不正なアクセスや当サイトに混乱をきたすような行為」「他サイトなどで根拠のない誹謗中傷などが発見された場合」 など左記はごく一部ですが、利用者に混乱をきたすと判断された場合は、データ保護の観点により、アクセス禁止措置、更に迷惑行為と判断し、法的措置を取らせていただく場合がございますので、ご了承ください。
取材等につきましてはこちらからご連絡ください。

名字検索

次に検索したい名字を入力してください。

*