有馬
【読み】ありま,ゆうま,ありば,ありうま
【ローマ字】
【全国順位】
617位
【全国人数】
およそ31,200人
由来解説
最終更新:2026/05/22 11:29:46 最終更新者:匿名
有馬さんの多い地域 TOP5
| 都道府県 | 人数 |
|---|---|
| 鹿児島県 | およそ5,300人 |
| 東京都 | およそ3,200人 |
| 福岡県 | およそ2,200人 |
| 大阪府 | およそ2,100人 |
| 神奈川県 | およそ1,900人 |
| 市区町村 | 人数 |
|---|---|
| 鹿児島県鹿児島市 | およそ1,700人 |
| 青森県青森市 | およそ500人 |
| 鹿児島県薩摩川内市 | およそ490人 |
| 鹿児島県日置市 | およそ440人 |
| 宮崎県都城市 | およそ420人 |
有馬さんの比率が多い地域 TOP5
| 都道府県 | 比率 |
|---|---|
| 鹿児島県 | 0.33287% |
| 宮崎県 | 0.11334% |
| 山口県 | 0.05789% |
| 青森県 | 0.05375% |
| 香川県 | 0.045% |
| 市区町村 | 比率 |
|---|---|
| 群馬県吾妻郡高山村 | 2.263% |
| 岩手県和賀郡西和賀町 | 1.865% |
| 宮崎県西諸県郡高原町 | 1.309% |
| 鹿児島県肝属郡肝付町 | 0.955% |
| 鹿児島県南さつま市 | 0.928% |
有馬さん有名人アクセスランキング TOP10
| 名前 | 生年月日 | ジャンル | 備考 |
|---|---|---|---|
| 有馬 翔 | 1990年 6月 5日 | スポーツ選手 | 元プロ野球選手 ソフトバンクホークス(09~13) 楽天ゴールデンイーグルス(14) |
| 有馬 純 | 1959年 | 研究者 | |
| 有馬 優茄 | 1991年 2月 18日 | 芸能人 | 元AKB48 研究生 |
| 有馬 新七 | 1825年 12月 13日 | 歴史 | 幕末の薩摩藩士、学者 |
| 有馬 徳純 | 1804年 6月 8日 | 歴史 | 越前丸岡藩6代藩主、晴信系有馬家9代、高田榊原政敦四男 |
| 有馬 頼萬 | 1864年 7月 18日 | 歴史 | 久留米有馬家14代当主、伯爵久留米有馬家初代 |
| 有馬 誉純 | 1769年 5月 22日 | 歴史 | 越前丸岡藩5代藩主、晴信系有馬家8代 |
| 有馬 徹 | 1987年 12月 25日 | 芸能人 | いぬ(お笑いコンビ) |
| 有馬 賴底 | 1933年 2月 10日 | その他 | 禅僧、臨済宗相国寺派管長、男爵久留米有馬分家正頼次男 |
| 有馬 頼貴 | 1746年 5月 21日 | 歴史 | 筑後久留米藩8代藩主、久留米藩有馬家9代 |
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【戦国武将・大名の家紋】
| 有馬さん みんなの名字の由来 |
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肥前有馬氏(ひぜんありまし)は、武家・華族だった日本の氏族。 鎌倉時代に肥前国高来郡有馬庄に起こった豪族・大名で、戦国期にキリシタン大名として著名な有馬晴信を出した。 江戸時代には越前国丸岡藩主家、明治維新後には華族の子爵家となる。通字は「純」または「澄」で、いずれも「すみ」または「ずみ」と読む。 赤松義祐を祖とする摂津有馬氏とは全く別の一族である。 家伝によれば伊予の藤原純友子孫と伝わるが、実際には肥前国藤津荘の荘司である平清澄・直澄の子孫とみられる。 建保年間中に経澄が肥前国高来郡有馬庄の地頭職を与えられたことから、有馬と称するようになった。 鎌倉時代には高来郡南部に勢力をもった。 南北朝時代には菊池氏や少弐氏に属す。室町時代の明応年間には「肥前守貴純」の名を見いだせる。 孫にあたる戦国時代の当主賢純の代、肥前6郡を支配、将軍足利義晴の諱をえて「晴純」と改称した。 その孫の有馬晴信はキリシタン大名として著名である。教名はプロタジオ、のちジョアンである。1582年に大友宗麟や大村純忠とともに天正遣欧使節を派遣した。 晴信は竜造寺氏の南進に対抗するため島津氏と結んだが、天正14年(1586年)に豊臣秀吉の九州征伐で秀吉に恭順して本領の高来郡4万石を安堵され、日野江城に住した。朝鮮出兵では小西行長軍に従軍。 晴信は関ヶ原の戦いで東軍に与し、徳川家康より本領を安堵されたが、慶長17年(1612年)の岡本大八事件で江戸幕府により甲斐国に流されて処刑。 しかし息子の直純に父の遺領4万石が与えられて存続、慶長19年(1619年)には日向国延岡藩5万3000石に加増転封となった。 元禄4年(1691年)に農民逃散の責を負わされて3000石を減封されて越後国糸魚川藩5万石に転封、さらに元禄8年(1695年)には越前国丸岡藩主に転封となる。以降廃藩置県まで同地で続いた。 2代丸岡藩主一準の代に外様大名から譜代大名になっており、5代藩主誉純は若年寄、最後の8代藩主である道純は老中になっている。 最後の丸岡藩主有馬道純は、明治2年(1869年)の版籍奉還で丸岡藩知事に任じられるとともに華族に列した。 明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた。 明治17年(1884年)7月7日に華族令が施行されて華族が五爵制になり、翌8日に道純は旧小藩知事として、子爵に叙された。 2代子爵純文は宮内省の官僚となり、東宮侍従や東久邇宮付家令、宮内事務官、帝室林野局技師などを歴任した。彫刻に秀で多摩陵璽を刻んだ。 3代子爵純尚の代の昭和前期に有馬子爵家の邸宅は東京市淀橋区下落合にあった。 |
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【投稿日】2026/05/22 21:13:15 【投稿者】匿名さん |
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摂津有馬氏(ありまし)は、武家・華族だった日本の氏族。村上源氏赤松氏の庶流で、室町時代に摂津国有馬郡を拠点とした。他流の有馬氏とは区別し、摂津有馬氏、赤松有馬氏とも呼ばれ、江戸時代、一族からは久留米藩主家などが出た。維新後には華族を3家出した(伯爵家1家、子爵家1家、男爵家1家)。 明徳2年(1391年)明徳の乱ののち、赤松則村(円心)の孫で、赤松則祐の五男・有馬義祐が、摂津国有馬郡の地頭に補せられ、その地に移り住んだため有馬氏を称した。 義祐の子・有馬持家は足利義教に側近として仕え、足利義政初期の寵臣として知られる(ただし、義政の寵臣であったのは息子の有馬元家であったとする説もある)。 なお有馬氏は、義祐-持家-元家の系統と義祐の弟である祐秀ー持彦-直祐の系統が家督争いをしており、康正元年(1454年)に元家が失脚・出家した後は持彦に家督を与えられているが、応仁の乱を経た文明年間には元家の子・則秀が家督を回復させている。 摂津国有馬郡は、元々細川氏の力を牽制するために赤松氏が分郡守護になっており、同地を実際に支配していた摂津有馬氏は、赤松氏から守護権力を分与された存在と位置づけられ、地頭職(分郡守護)を継承する有馬氏嫡流は、当主の発給文書でも「赤松」の名乗りを用いていたが、赤松氏宗家が衰退すると、細川氏に接近して有馬郡の支配を維持するようになり、享禄年間以降には当主の文書の名乗りも「有馬」と変えていく。 有馬村秀は三好長慶の傘下に入り、同氏に従属する国衆として位置づけられていくが、織田信長の台頭によって新たに摂津一国の支配を任された荒木村重と対立、天正3年(1575年)の有馬国秀の自害によって断絶した。 分家にあたる有馬重則は、播磨国美嚢郡に進出、同族の別所氏やその縁戚の淡河氏と対立した。 その子の則頼は豊臣秀吉に従い、後に御伽衆に列し、聚楽第に屋敷を与えられた。則頼の次男豊氏は豊臣秀次の家老渡瀬繁詮に仕えていたが、文禄4年(1595年)に繁詮が秀次事件により改易され、領地の遠江国横須賀3万石を引き継いで治めた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで有馬父子は東軍に与し、その戦功から則頼は一族の旧領摂津国有馬郡三田藩2万石、豊氏は丹波国福知山藩6万石に封ぜられる。 慶長7年(1602年)、則頼が没すると豊氏は、遺領を含め8万石に加増された。その後大坂の陣においても徳川方として戦功をあげ、元和6年(1620年)にはさらに加増移封され筑後国久留米藩21万石の藩主となって以降、廃藩置県まで久留米に在封。家格は大広間詰で、国持大名の扱いを受けた。久留米藩主としての初代は豊氏であるが、「久留米藩有馬家」当主の代数は、則頼を初代として数えられる。 明治維新後には華族の伯爵家となる 久留米藩2代藩主忠頼は、当初跡継ぎに恵まれなかったため、但馬国出石藩主小出吉重の子で、外甥にあたる有馬豊祐を養子とした。しかし、後に頼利、頼元が生まれ、豊祐には支藩として松崎藩1万石を分封される。 豊祐は、縁戚である陸奥国窪田藩主土方氏のお家騒動の仲裁を怠った責を問われて土方雄隆(正室が小出吉重の娘、豊祐にとっては姉婿)に連座、改易された。 嫡子小出英致(初名:有馬豊胤)は小出氏の養子となり、松崎支藩主家は一代で断絶。1万石は頼元に還付された。 久留米藩初代藩主有馬豊氏の三男・有馬頼次は、徳川忠長に仕えて1万石を給されたが、忠長の改易に連座して所領没収。 頼次の継嗣(有馬則氏の外孫)有馬吉政は、紀州藩主徳川頼宣に1000石で仕えた。吉政から数えて3代目にあたる有馬氏倫は、紀州藩主時代から徳川吉宗に側近として仕え、吉宗が将軍となると御側御用取次となった。 有馬氏倫は、数次にわたる加増を受け、享保11年(1726年)には1万石の大名となり、伊勢西条藩を立藩。本家筋の久留米藩有馬家が外様大名であるのに対して、大名取り立ての経緯から氏倫系の有馬家は譜代大名である。 有馬氏恕の代の天明元年(1781年)、上総国へ陣屋を移して五井藩を立藩。有馬氏郁の代の天保13年(1842年)下野国に移り吹上藩となり、同地で廃藩置県を迎える。 明治維新後、華族の子爵家となる。 最後の久留米藩主有馬頼咸は、明治元年(1868年)に新政府の軍務官副知事に就任、戊辰戦争で戦功を上げ、翌2年(1869年)に賞典禄1万石を下賜された。同年の廃藩置県で華族に列するとともに久留米藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県まで藩知事を務めた。 版籍奉還の際に定められた家禄は現米で1万1819石。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄・賞典禄と引き換えに支給された金禄公債の額は31万5304円45銭8厘(華族受給者中17位)。 明治17年(1884年)7月7日の華族令施行に伴い華族が五爵制になり、頼咸の五男である頼万が旧中藩知事として、伯爵に叙せられた、初代伯爵は宮内省の式部寮や農商務省の御用掛を務め、また久留米育英会総裁も務めて旧領久留米の教育事業に貢献した。 その息子・2代伯爵有馬頼寧は、大正・昭和期に活動した政治家として知られる。農政・教育・社会事業やスポーツに携わり、戦前は貴族院の伯爵議員に当選して務め、農林大臣(第1次近衛内閣)、大政翼賛会事務局長などを歴任。 戦後には日本中央競馬会第2代理事長としてファン投票による出走馬の選定という当時前代未聞の画期的な選抜方法を考案し、有馬記念にその名を残している。 頼寧の三男で16代当主の有馬頼義は第31回直木賞作家である。頼義の子で17代当主の有馬頼央は有馬家ゆかりの神社水天宮の神職及び奨学団体の理事長を務めている。 昭和前期に有馬伯爵家の邸宅は東京市杉並区関根町にあった。 最後の吹上藩主有馬氏弘は、明治2年(1869年)の版籍奉還で華族に列するとともに吹上藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県まで藩知事を務めた。 版籍奉還の際に定められた家禄は現米で353石。 明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄・賞典禄と引き換えに支給された金禄公債の額は1万3362円33銭(華族受給者中304位)。 久留米藩主有馬頼咸の子有馬頼之が氏弘の養嗣子となり、明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行により、同年7月8日に旧小藩知事として子爵に叙された。頼之は貴族院の子爵議員に当選して務めている。 頼之の子の有馬聰頼子爵は昭和18年(1943年)に爵位を返上している。 有馬子爵家の邸宅は昭和前期には東京市品川区上大崎にあった。宗旨は神道。 最後の久留米藩主有馬頼咸の八男有馬頼多は、有馬伯爵家から分家することになり、兄頼万は明治29年(1896年)12月に宮内大臣土方久元に宛てて内願書を提出し頼多の華族編列と叙爵を請願。 宮内省は明治30年5月3日に有馬家の維新の功と、旧大名華族の分家華族の先例として徳川義恕、浅野養長、細川護晃、黒田幸太郎などがあったことから、この請願を許可。 これにより頼多は明治30年(1897年)7月1日に男爵に叙せられている。 同男爵家の邸宅は昭和前期には東京市渋谷区神山町にあった、臨済宗相国寺派管長の有馬頼底はこの男爵家の出身である。 |
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【投稿日】2026/05/19 10:41:21 【投稿者】匿名さん |
| みんなの名字の由来 投稿 |
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【都道府県】大阪府 先祖は久留米潘でした。大阪に大正時代くらいに移り住んだようです。
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| 【投稿日】2020/11/16 11:29:57 【投稿者】牡丹さん | |
![]() 丸に釘抜き |
【都道府県】愛媛県 父方の家紋です、由来は聞けないままです。
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| 【投稿日】2017/09/07 13:10:11 【投稿者】蒼い月さん | |
| 有馬さん名字伝言板 |
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【語られているテーマ】名字について情報がほしいです 【限定地域】香川県 【語りたい名字または名前】有馬さん ※名字情報ある方のみ 讃岐藤家六十三家と有馬家 続きはこちら |
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投稿者:cmdirectorさん 最新投稿日時:2022/08/21 23:50:42
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