大岡
【読み】おおおか,だいおか,おおか
【全国順位】
1,384位
【全国人数】
およそ11,800人
由来解説
大岡さんの多い地域 TOP5
| 都道府県 | 人数 |
|---|---|
| 愛知県 | およそ1,400人 |
| 東京都 | およそ1,200人 |
| 大阪府 | およそ1,200人 |
| 神奈川県 | およそ970人 |
| 兵庫県 | およそ760人 |
| 市区町村 | 人数 |
|---|---|
| 広島県呉市 | およそ260人 |
| 神奈川県横浜市瀬谷区 | およそ210人 |
| 愛知県豊田市 | およそ170人 |
| 東京都足立区 | およそ160人 |
| 愛知県安城市 | およそ150人 |
大岡さんの比率が多い地域 TOP5
| 都道府県 | 比率 |
|---|---|
| 和歌山県 | 0.02865% |
| 滋賀県 | 0.0259% |
| 広島県 | 0.02485% |
| 香川県 | 0.02443% |
| 栃木県 | 0.0241% |
| 市区町村 | 比率 |
|---|---|
| 奈良県吉野郡野迫川村 | 2.465% |
| 滋賀県犬上郡多賀町 | 0.641% |
| 栃木県芳賀郡益子町 | 0.476% |
| 佐賀県藤津郡太良町 | 0.413% |
| 和歌山県東牟婁郡串本町 | 0.406% |
大岡さん有名人アクセスランキング TOP10
| 名前 | 生年月日 | ジャンル | 備考 |
|---|---|---|---|
| 大岡 秀朗 | 1955年 9月 18日 | 歴史 | 三河西大平藩大岡家15代、実業家、メルセデス・ベンツ日本株式会社常務取締役 |
| 大岡 忠恒 | 1684年 | 歴史 | 旗本、大岡本家忠行家5代、書院番、旗奉行、大岡忠高六男 |
| 大岡 忠光 | 1712年 4月 12日 | 歴史 | 旗本、御側御用人、上総勝浦藩主、武蔵岩槻藩初代藩主 |
| 大岡 忠貫 | 1847年 9月 8日 | 歴史 | 武蔵岩槻藩8代藩主、藩知事、子爵岩槻大岡家初代 |
| 大岡 忠敬 | 1828年 11月 3日 | 歴史 | 三河西大平藩7代、藩知事、子爵西大平大岡家初代、大岡忠移五男 |
| 大岡 忠種 | 1611年 | 歴史 | 旗本、大岡忠行家2代、大岡忠世長男 |
| 大岡 忠愛 | 1807年 | 歴史 | 三河西大平藩6代藩主、大岡忠世家8代 |
| 大岡 忠喜 | 1739年 1月 6日 | 歴史 | 旗本、大岡忠房家5代、武蔵岩槻藩2代藩主、旗本大岡忠光長男 |
| 大岡 忠要 | 1767年 1月 8日 | 歴史 | 武蔵岩槻藩3代藩主、大岡忠房家6代当主 |
| 大岡 忠正 | 1781年 10月 31日 | 歴史 | 武蔵岩槻藩5代藩主、大岡忠房家8代、八田加納久周三男 |
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【戦国武将・大名の家紋】
| 大岡さん みんなの名字の由来 |
|---|
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大岡氏(おおおかし)は、武家・華族、江戸時代に2家が小大名となり(西大平藩、岩槻藩)、維新後両家とも子爵家に列す。家紋は大岡七宝(剣輪違)。 大岡氏の出自は『寛政重修諸家譜』によれば、鎌倉時代の摂政・九条教実の後裔、忠教が三河国八名郡宇利郷(現愛知県新城市八名地域自治区)に住み、のち同郡大岡郷(現愛知県新城市黒田字大岡)に移り、名字を大岡と称してその子大岡善吉(大岡伝蔵) 、そしてその子の大岡忠勝と続いたことに始まるとする。 岩倉具視の『華族類別録』では、大岡善吉は九条尚経の子とされる。 一方で、熊野別当大岡行憲の子長弘が八名に移り住んだという伝承もあるが、何れも確証に乏しい。太田亮によれば、三河国安城の大岡白山神社の社家大岡氏一族と推測している。 その後大岡氏は、三河国八名郡宇利郷の土豪の家系として、戦国時代に大岡忠勝が松平清康・広忠・家康に仕え、またその子忠政とその子忠世も家康に仕えて戦功を挙げたことから、武家としての目立ったキャリアを積んでいく。 家康の関東移封後の天正19年(1591年)に忠政は相模国高座郡堤村に380石余の領地を与えられ、後に同郡大曲村に220石を加増され都合600石となり、徳川秀忠に附属。 忠政の長男忠俊は、関ヶ原の合戦で戦死、次男忠行が家督を継いだが、この際、三男忠世に220石を分知し、この家系は後に西大平藩主家となった。 また四男忠吉も秀忠の娘・東福門院(和子)に近侍、最終的に2300石の家禄が与えられて旗本に出世、その分家から岩槻藩主家が出た。 宗家の忠行は大坂夏の陣で戦死し、その養子忠種(分家の忠世の長男)が、目付、大目付などを務め加増を繰り返され、その子忠方の家督時の家禄は630石余、切米800俵であった。 その子忠種の養子忠恒(忠吉家の大岡忠高の六男)の代に、切米800俵と下総国の50石が武蔵国幡羅郡、兒玉郡、榛沢郡における850石の領地に替えられ、都合1450石。 西大平藩主家の大岡家は、大岡忠政の三男忠世を家祖とし、忠世は慶長2年(1597年)に父忠政の領地のうち相模国高坐郡の220石を分知され大岡分家旗本家を起こして、彼とその子忠実の代の加増で都合1420石となった。 忠吉家の当主忠高の四男忠相は、忠実養子に入って同家を継いで、これが徳川吉宗に抜擢され、江戸南町奉行を長く務め越前守の武家官位を得、「大岡越前守」の称で今日もよく知られる(大岡政談、大岡裁き、大岡越前等)。 忠相はこれによって加増を繰り返し寛延元年(1748年)に1万石に達して大名となり、晴れて三河国西大平藩主となった。以降同家は廃藩置県まで同地に在封。 最後の西大平藩主忠敬は、幕末に幕府大番頭を務めていたが、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いにより幕府軍が惨敗のをみて幕府を見限り、官軍につき、尾張国熱田宮宿と遠江国新居宿の間の官軍の食糧・人馬などの補給や、宿警備の任にあたった。 維新後、華族の子爵家に列す。 旗本の大岡忠吉家は、大岡忠政の四男忠吉を家祖とする。 忠吉は慶長8年に相模国高座郡に160石余を与えられ大阪の役で1500石余に加増された。その後京都において、秀忠の娘で後水尾天皇の皇后となった東福門院(和子)に近侍、さらに加増を繰り返されて最終的に2300石となった。 子の忠章は弟忠房に300石を分知したため、2000石。 その子忠高も弟に忠久にさらに300石を分知したため、1700石となったが、彼の代にもまた加増あって2700石に増えた。この忠高の四男で上記忠世家に養子入りしたのが大岡忠相にあたる。 忠高の長男忠品は、5代将軍徳川綱吉の怒りを買って八丈島に島流しとなってしまったが、後に許され存続した。また彼の代に500石を弟忠厚に分知して2300石。 岩槻藩主家の大岡家は、大岡忠吉の四男大岡忠房を家祖とし、忠房は、廩米300俵を受けて一家を興し、一時三浦姓を称す。父の死後に兄忠章から300石の分知を受け、廩米は収公、その後大岡姓に復している。その孫の忠利の代の享保18年(1733年)に800石に加増。 子の忠光が、虚弱体質で言語不明瞭であった9代将軍家重の言葉を理解できる唯一の小姓として将軍の信頼を得、栄進して宝暦元年12月(1752年1月)に上総国夷隅郡勝浦藩1万石の大名となった。 宝暦6年5月21日には側用人になると同時に、武蔵国埼玉郡を中心に2万石を領する武蔵岩槻藩主に移封。 忠固の代の弘化2年(1845年)に3千石加増され2万3千石となった。 最後の岩槻藩主大岡忠貫は、慶応4年(1868年)3月に江戸の旧幕府勢力征伐に向かう東征軍が迫り、東征軍に恭順、東山道総督府の命令により旧幕府軍の脱走兵の鎮圧、つづいて4月には東海道総督府の命で賊徒征伐に従軍。 維新後、華族の子爵家に列す。 最後の西大平藩主大岡忠敬は、明治2年(1869年)6月24日版籍奉還に伴って、西大平藩知藩事に任じられるとともに華族に叙せられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県に伴う罷免まで知藩事を務める。明治2年3月17日には岡崎駅本陣服部専左衛門方に置かれた明治天皇の行在所に天機伺いのため参上し、天皇の謁を賜る。藩知事罷免後、明治5年から教部省権中講義を拝命、翌6年には同省の権大講義に昇進。 版籍奉還の際に定められた家禄は現米で325石。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は、1万2684円43銭5厘(華族受給者中322位)。 明治前期の忠敬の住居は東京府赤坂区赤坂一ツ木町にあった。当時の家扶は大岡貞雄。 明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事として忠敬は子爵に叙せらる。 忠敬の死後は、その子忠明が、忠明の死後は、その子忠綱が子爵位と家督を相続。 3代子爵の忠綱は朝鮮銀行勤務を経て貴族院議員を務める。彼の代の昭和前期に西大平大岡子爵家の邸宅は東京市麻布区宮村町にあった。 最後の岩槻藩主大岡忠貫は、明治2年(1869年)6月23日版籍奉還に伴って岩槻藩知藩事に転じるとともに、華族に列し、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県に伴う罷免まで知藩事。 版籍奉還の際に定められた家禄は現米で888石。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は、3万6878円90銭5厘(華族受給者中150位)。 明治前期の忠貫の住居は東京府神田区錦町にあった。当時の家扶は藤井祐澄。 華族令施行後の明治17年7月8日に旧小藩知事として忠貫は子爵に叙せられた。 忠貫が大正9年に死去すると、次女幸子の夫忠量(町尻量衡子爵三男)が婿養子として、子爵位と家督を相続。忠量は陸軍歩兵中尉まで昇進した陸軍軍人であった。 忠量の死後、忠量の次女多美子の夫忠礼(毛利元功子爵八男)が婿養子として子爵位と家督を相続。忠礼も陸軍騎兵少尉だった。 その子4代子爵忠憲の代の昭和前期に、岩槻大岡子爵家の邸宅は東京市赤坂区青山南町にあった。 |
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【投稿日】2026/01/15 05:26:53 【投稿者】匿名さん |
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