北条
【読み】ほうじょう,きたじょう,ほくじょう,ほうしょう,ほくじゅう,ほじょう
【ローマ字】
【全国順位】
1,438位
【全国人数】
およそ11,200人
由来解説
最終更新:2026/05/21 07:29:22 最終更新者:匿名
北条さんの多い地域 TOP5
| 都道府県 | 人数 |
|---|---|
| 東京都 | およそ2,000人 |
| 大阪府 | およそ1,200人 |
| 栃木県 | およそ1,100人 |
| 兵庫県 | およそ1,100人 |
| 神奈川県 | およそ800人 |
| 市区町村 | 人数 |
|---|---|
| 栃木県宇都宮市 | およそ460人 |
| 兵庫県姫路市 | およそ380人 |
| 大阪府堺市南区 | およそ210人 |
| 東京都大田区 | およそ130人 |
| 長野県伊那市 | およそ110人 |
北条さんの比率が多い地域 TOP5
| 都道府県 | 比率 |
|---|---|
| 栃木県 | 0.05856% |
| 長野県 | 0.0297% |
| 兵庫県 | 0.02006% |
| 山梨県 | 0.01584% |
| 東京都 | 0.01521% |
| 市区町村 | 比率 |
|---|---|
| 栃木県那須郡那珂川町 | 0.466% |
| 山梨県南巨摩郡身延町 | 0.429% |
| 長野県北安曇郡池田町 | 0.425% |
| 東京都三宅村 | 0.364% |
| 東京都小笠原村 | 0.343% |
北条さん有名人アクセスランキング TOP10
| 名前 | 生年月日 | ジャンル | 備考 |
|---|---|---|---|
| 北条 時宗 | 1251年 6月 5日 | 歴史 | 鎌倉幕府第8代執権、4代目連署、元寇 |
| 北条 時行 | 1329年 | 歴史 | 鎌倉末期〜南北朝期の武将、中先代、北条高時次男 |
| 北条 宗政 | 1253年 2月 27日 | 歴史 | 鎌倉中期の北条氏得宗家一門、宗政流祖、北条時頼3男 |
| 北条 司 | 1959年 3月 5日 | 芸術家 |
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| 北条 雋八 | 1891年 5月 18日 | 政治家 | 貴族院議員、参議院議員、子爵狭山北条家3代、公明党参議院法務委員長 |
| 北条 邦時 | 1325年 12月 27日 | 歴史 | 鎌倉末期の北条氏得宗家嫡子 |
| 北条 泰時 | 1183年 | 歴史 | 鎌倉幕府第3代執権、御成敗式目 |
| 北条 貞時 | 1272年 1月 14日 | 歴史 | 北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第9代執権 |
| 北条 時員 | 歴史 | 佐介流北条時盛子 | |
| 北条 氏尭 | 1522年 4月 11日 | 歴史 | 戦国武将、後北条氏一族、後北条氏綱四男 |
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【戦国武将・大名の家紋】
| 北条さん みんなの名字の由来 |
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北条氏は嫡流である得宗家を筆頭に、名越流や金沢流などの諸流に分かれ繁栄した。 名越流は、その嫡流意識の強さより、たびたび得宗家と対立、数度の討伐を受けた。金沢流は最古の武家文庫と知られる金沢文庫を設立した。 極楽寺流の北条重時は『極楽寺殿御消息』『六波羅殿御家訓』の作者として知られる。 嫡流にあたる得宗家では、泰時(初め頼時)が源頼朝、経時・時頼の兄弟が九条頼経、時宗が宗尊親王、貞時が惟康親王を「烏帽子親」に元服していることが史料から明らかになっており、義時と貞時・高時父子を除く歴代当主(当主にはなっていない高時の嫡子・邦時も含む)が、烏帽子親である征夷大将軍よりその偏諱(名の一字)を受けていたことがうかがえる。 得宗家は、本来ならば将軍の下で一御家人という立場にありながら、「烏帽子親関係」による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており、その統制の主体である烏帽子親、すなわち有力御家人が一字を賜る相手が、将軍から得宗家へ移行したという見解が示されている。 また将軍を烏帽子親として、一字を与えられるのが得宗家と赤橋流北条氏の当主に限定されていたのに対し、大仏流北条氏や金沢流北条氏の当主は、得宗家を烏帽子親として一字を拝領していることより、それよりも一ランク低い家と位置づけられていたことがうかがえる。 このように、北条氏一門の中でも家格の違いがあることは、この当時、烏帽子親のランクに応じた家格が存在していたことを示唆するものであるとの指摘もなされている。 有力御家人のうち、代々北条氏と婚姻関係を結び、のちに室町幕府の将軍家となった足利氏を例にとると、鎌倉期の嫡流家の歴代当主の諱は「得宗の当主の偏諱+通字の氏」で構成されている(具体的には、泰氏が泰時、頼氏が時頼、貞氏が貞時、貞氏の三人の息子(高義・高氏・高国)が高時から、それぞれ偏諱の授与を受けたとする)。足利氏は代々北条氏一門の女性を正室に迎え、その間に生まれた子が嫡子となり、たとえその子より年長の子(兄)が何人あっても、彼らは皆庶子として、扱われ家を継ぐことができないという決まりがあったが、正室(北条時盛の娘)が子を生む前に早世した頼氏の跡は、その庶子であった家時(貞氏の父、母は上杉重房の娘)が家督を継いだ。 家時に「氏」が付かないのはこのためであるようだが、代わりに用いられた「時」の字は本項の冒頭で示したように北条氏の通字であり、やはり北条氏から偏諱を受けたものであるとみられる。 また足利高義の名の2文字目に清和源氏の通字である「義」の字が使われている背景には、当時の足利氏と北条得宗家の良好な関係の象徴であり、得宗家が足利氏の将軍および得宗家への忠節と引換に「源氏嫡流」として認められたとする見方もある(→「門葉」)。 ちなみに、泰氏の父・義氏の「義」の字に関しても、同様の考えで北条義時から賜ったと考えることもできなくはないが、現状の研究では言及されておらず、ひとまずは前述の清和源氏より続く、義氏までの足利氏の通字とみなすのが良いと思われる。 北条氏から一字を受けた御家人は、足利氏のみならず、紺戸論文では二階堂氏(行光流)、大江長井氏、佐々木氏(六角氏・京極氏・義清流)、千葉氏、河越氏、大仏流北条氏、小山氏、小田氏もその例に当てはまるとしており、特に足利・二階堂・長井・六角・京極・千葉・河越の各氏から以下の共通点を見出している。 すべての系統が泰時の「泰」、経時の「経」、時頼の「頼」、時宗の「宗」、貞時の「貞」、高時の「高」を順次諱の一字としており、これらの文字が使われない場合でも、北条氏の通字である「時」が使われている。 すべての系統が概ね嫡流である(一部例外あり)。 各系統のどの世代においても、同じ字を持つ得宗家当主がその地位にあった時期に元服していると見られる。 以上の現象が縦の父子関係で繰り返されており、原則横の兄弟の関係では見られない(二階堂氏など例外あり)。 北条氏が他御家人に一字を付与するにあたり、特に泰時以降においては基本的に通字の「時」でない方を与えるようであったが、前述の足利家時のように「時」の字の方を与えられるケースもあった。 金沢実時(泰時より)や金沢顕時(時宗よりのように北条氏一門ではその通字とみなせるが、述べたように家時の場合、足利氏では「氏」の字を通字としていたため、「時」の字は北条氏から与えられたものであることが指摘されており、平賀惟時(時頼より)、安達時顕、小山時長、大友親時、武田信時、武田時頼、武田時綱、千葉時胤、長井時秀、毛利時親、結城時広、六角時信なども同様に「時」の字を与えられた者と考えられる。しかし、「時」の字の方を与えられた理由についてはまだ分かっていない。 室町時代以降、主君へのはばかりから、主君からの偏諱は受ける側の上の字(1文字目)となる場合がほとんどとなったのに対し、鎌倉時代においては下の字(2文字目)につけるケースも多く見られるが、こちらもその理由や基準については明らかになってはいない。しかしながら、烏帽子親子関係が歴史の表面に現れることは稀なことであり、それを明らかにするべくより詳細に分析しようとしても史料的な限界に達してしまうことが予期されるため、今後の更なる研究が必要な分野でもある。 この北条氏の得宗家による一字付与は、婚姻関係に代わる御家人層に対しての政策であったと考えられ、その対象となったのは、北条氏に対抗し得る勢力を持った特定の氏族(=幕府創設以来の伝統的な御家人)の嫡流(宗家)であった。前述の例に示した足利氏はその筆頭格であり、「特定の氏族」の中には、二階堂氏のように幕府の機能の中枢を担う官人も含まれていた。但し、この烏帽子親子関係のみならず、足利氏に対しては一族の女性を嫁がせ、一門の大仏流北条氏に対しては嫡流のみならず他の一族(宗宣の弟たちや高直など)とも烏帽子親子関係を結ぶなど、他の政策と併用しながら、時には比企能員の変、和田合戦、宝治合戦などといった排除政策を行いながら、得宗政治体制を維持していったのである。 |
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【投稿日】2026/06/06 16:26:01 【投稿者】匿名さん |
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北条氏(ほうじょうし、旧字体: 北條氏)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。 戦国大名北条氏(後北条氏、小田原北条氏)との混同を避けるため鎌倉北条氏、もしくは代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。 ただし北条から移住した後も、実際に北条の名字で呼称されたことが確認できる者は時政、時頼などごく少数派である。 鎌倉幕府の最高政務機関・評定衆の席次上位を独占した北条氏系十二家は、以下の家が挙げられる。名越家、常盤家、塩田家、政村流北条氏、伊具家、甘縄家、佐介家(2家)、時房流北条氏、大仏家(3家)。 伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地豪族。桓武平氏の平直方を始祖と自称する。 後北条氏と並んで桓武平氏を本姓とされることがある。 ただし現在伝わる北条氏系図の中には、時政以前の系譜において違いを見せるものもいくつか存在する。 関東で成立した『源平闘諍録』では、伊勢平氏の祖・平維衡の子孫とされている。こうした史料状況から、北条氏は自家の系譜が正確に伝わる家ではなかったことを示しているとして、桓武平氏の流れであることを疑問視、ならびに否定視する研究者も出てきた。家紋研究家の高澤等は、同じ三つ鱗紋を用い、北条氏のように、大蛇伝説を持つ豊後緒方氏の祖である大和大神氏一族ではないかと論考している。 ただし時政の祖父が時家、父が時方(または時兼)という点は、諸系図でほぼ一致しており、時家の『尊卑分脈』傍注には「伊豆介」とある。上横手雅敬は、土着したのはそう古い年代ではなく、幕府内で要職に就いているために、京都と極めて密接な関係にあったのではないかと推測している。 また杉橋隆夫は、『吾妻鏡』が時政の父の名前すら記していないのに、同族とされる北条時定の卒伝には、父の北条時兼が「北条介」であったことを記していることを指摘して、本来は時兼ー時定が北条氏の嫡流であったと推測する。 佐々木紀一は『源平闘諍録』の系譜に時政の祖父である平時家を「北条介の婿」と記していること、北条氏の婚姻関係が明らかになるのは時家以降であることから、時家を11世紀後半から12世紀初めの実在の人物で画期とみている。 野口実は杉橋や佐々木の見解を受けて、時定が時政の弟か従弟か甥かは確定できないものの、時政と異なって早くから京都に出仕していたこと、北条氏が平直方の子孫であるとする系譜に関しては ・源頼朝が北条時政の婿である事実と、源頼義が平直方の婿である故事を結びつけるため、北条氏を直方の子孫である系譜を捏造した可能性は排除できない。 ・京武者・平時家が、何らかの事情で伊豆の在地官人である北条氏の婿として家を継いだもので、時家が直方の子孫であった可能性は排除できないが、受領に就くことが可能な他の京武者の出身であった可能性もある(野口は時政が頼朝から伊勢の地頭職を与えられていることから、その祖である時家が、伊勢平氏の出身であった可能性を推定している)。 という見解を提示している。 その一方で、三嶋大社とも縁があり、伊豆国造とつながりがある日下部氏一族ではないかという推察もある。 『吾妻鏡』文治5年(1189年)6月6日条によれば、田方郡内には南条・北条・上条・中条と呼ばれる地域が並んでいたという。平安時代中期以降、律令制の郡は名田または名(みょう)といった徴税単位に細分化され、方位や区分を示す「条」と呼ぶ例が多く見られた。 他の東国有力武士団である三浦氏・千葉氏・小山氏・秩父氏などは、何代か前から多くの有力な一族を各地に分派させて同族集団を形成しているが、北条氏には時政以前の分流が、甥といわれている北条時定系統の他は見られない(時政の兄弟の存在すら不明である)こと、『吾妻鏡』が40歳を越えた時政に「介」や都の官位などに就かず、ただ「北条四郎」「当国の豪傑」とのみ記していること、保有武力に関しても、石橋山の戦いの頼朝軍の構成を見る限り突出した戦力を有していたとは言いがたいこと、などから、北条氏勢力は決して大きくなく、伊豆においてもせいぜい中流クラスの存在であった、とするのが一般的な見解である。 一方で北条氏の本拠は、国府のある三島や狩野川流域に近接して軍事・交通の要衝といえる位置にあることから、国衙行政や交易などに長けており、所領小さくても富強であったとする見解もある。 鎌倉幕府の執権 北条時政は、娘北条政子が源頼朝の妻となったことにより、頼朝の挙兵に協力して鎌倉幕府の創立に尽力、頼朝が征夷大将軍に任じられると、有力御家人としての地位を得る。 亀の前事件で頼朝に抗議して伊豆に閉居していた時期もあったが、やがて頼朝の命で京都守護として京都の治安回復や朝廷との交渉にあたった。 特に独裁権をふるった頼朝の死後、源氏以外で初の国守に任官、政策機関としての十三人の合議制に親子で名を連ねるなど、並び御家人から一歩抜きん出た勢力となっている。 頼朝の子源頼家・源実朝の外戚として幕府内で強い影響力を持ち、初代執権となった。そして2代将軍頼家を追放、修禅寺に幽閉した上で謀殺した。さらに第3代将軍・実朝をも暗殺し、娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、娘の政子や息子の義時に反対され出家させられた。 北条氏は2代執権義時より、数代にわたって他の有力御家人を次々と排除、執権政治を確立した。 実朝が暗殺されると、義時は京都から九条頼経を第4代将軍に迎え(摂家将軍)、将軍の地位を名目的なものとし、後鳥羽上皇が北条氏排除を企てた承久の乱に勝利、幕府を安定させることに成功した。 3代執権北条泰時は、御成敗式目を制定、幕府の御家人支配をゆるぎないものにした。 北条氏は、得宗と呼ばれる嫡流を中心に名越、赤橋、常葉、塩田、金沢、大仏などの諸家に分かれ、一門で執権、連署、六波羅探題などの要職を独占、評定衆や諸国の守護の多くも北条一族から送り出した。 なおこれらの分流は、すべて時政以降のものであり、一族が膨れ上がる中でも、それ以前の北条氏の流れはまったく歴史に登場していない。 得宗家の家臣は「御内人」と呼ばれ、しばしば得宗の代官として得宗家の所領や守護所などに派遣されている。 また得宗家の家政を取り仕切る最高責任者は「内管領」と呼ばれ、平頼綱や長崎円喜のように権力を振るうものも現れた。 摂家将軍・頼経、頼嗣は成長すると独自の政権運営を指向、執権に反抗的な態度を取る。第5代執権・北条時頼は第5代将軍・頼嗣を追放、宗尊親王を第6代将軍に迎えることで、この危機を乗り切り朝廷との関係を固めた(皇族将軍)。 第8代執権・北条時宗は元からの国書を黙殺、御家人を統率して元寇と戦う。これを機に鎌倉幕府は非御家人への軍事指揮権も獲得したほか、西国での支配権が強化され、北条一門が鎮西探題、長門探題として派遣された。また北条一門の諸国守護職の独占も進む。 時宗の息子・第9代執権・北条貞時は、平禅門の乱で内管領の平頼綱を滅ぼして得宗専制を確立する。 これらにより御家人層の没落が進行、没落した御家人の中には御内人になる者もあらわれる。 貞時の子・第14代執権・北条高時は後醍醐天皇の挙兵計画である正中の変を未然に防ぐが、後醍醐が2度目の計画である元弘の乱に続いて1333年(元弘3年/正慶2年)に再度挙兵すると、御家人筆頭の足利高氏(尊氏)がこれに呼応して京都の六波羅探題を滅ぼし、上野国の新田義貞も挙兵、高氏の嫡子・千寿王(足利義詮)が合流すると、関東御家人が雪崩を打って倒幕軍に寝返り、鎌倉を陥落させる。最後は東勝寺合戦において敗戦、北条一族のほとんどは討死、また直後に自害し北条氏は滅亡する。 鎌倉幕府滅亡後に建武の新政が開始された後も、北条氏の残党は津軽や日向国、伊予国など各地で散発的に反乱を起こした。 1335年(建武2年)に京都に潜伏していた高時の弟・北条泰家(時興)が公家の西園寺公宗と政権転覆を計画するが、未然に発覚。公宗は後醍醐天皇暗殺に失敗し誅殺されたが、泰家は逃亡、各地の北条残党に挙兵を呼びかける。北条氏の守護国のひとつであった信濃国で、高時の子・時行らが挙兵、中先代の乱を起こす。 時行軍は足利方の信濃守護・小笠原貞宗を破り、一時鎌倉を占領する。鎌倉にいた足利尊氏の弟・足利直義は、幽閉されていた護良親王が時行に担がれる事を警戒、家臣の淵辺義博に護良親王を殺害させる。尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま乱の討伐に向かい、時行を駆逐、そのまま鎌倉へ留まり建武政権から離反する。その後時行は、南朝から朝敵免除を受け、観応の擾乱の際に武蔵国で再度挙兵するが、尊氏に敗れて捕らえられ斬られた。 時行の子孫は横井氏を称し、子孫は尾張国海西郡(現・愛西市)赤目城主となり、江戸時代は尾張藩家老を務めた。 特に江戸時代初期には、慶長13年(1608年)の尾張一国検地(備前検地)において徳川家康から検地を免除されるなど、特別な待遇を受けた。 また一族からは俳人として著名な横井也有、幕末の肥後熊本藩士で、越前福井藩松平家に派遣され活躍した横井小楠などが出ている。また賤ヶ岳の七本槍の平野長泰も、横井氏の末裔と名乗り、その子孫は交代寄合を経て明治時代に男爵を賜った。 戦国大名である後北条氏の家臣である横井氏もこの一族とされ、伊勢(北条)氏綱の正室である養珠院殿は同氏の出身とする説も出されている。なお、養珠院殿が同氏の出身ではなかったとしても、後北条氏とは以下の通り血統的なつながりがある。 北条時政―時子(足利義兼室)―足利義氏―吉良長氏―今川国氏……今川氏親―瑞渓院―北条氏政 北条顕時―女子(足利貞氏室)―足利高義―女子(上杉朝定室)―上杉朝顕―女子(今川泰範室)―今川範政……氏親―瑞渓院―北条氏政 北条氏の女系血筋は、足利氏などの武家や、阿野家などの公家にも受け継がれている。 |
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【投稿日】2026/06/06 16:18:05 【投稿者】匿名さん |
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盛時の代、上杉配下の幕僚だった太田道灌の発案という足軽の軍制を採用、各城下に侍の屯所である根小屋と技術者保護のための職人町を築いて、兵農分離をいちはやく志向した。冑類の生産は全国有数の規模で、鉄砲の導入にも積極的だった。 後北条氏は、小田原城を中心とした本城支城体制を確立した。 各城には位が付けられ、城主には勲功によって昇格や降格、配置換えを行うという近代的な制度だった。 最盛期の後北条氏には、10万の軍勢の動員をも可能とした戦力があった。この軍事上の優越とともに、東北の伊達政宗、東海の徳川家康、中部の織田信雄、四国の長宗我部元親などとの外交上の連携をもって、後北条氏は関東自立を目指していた。 後北条氏は内政に優れた大名として知られている。 盛時以来、直轄領では日本史上最も低いと言われる四公六民の税制をひき、代替わりの際には大掛かりな検地を行うことで増減収を直に把握、段階的にではあるが在地の国人に税調を託さずに中間搾取を排し、また飢饉の際には減税を施すといった公正な民政により、安定した領国経営を実現した。江戸期に一般化する村請制度のさきがけと言える。 また家督を継承するにあたって、正室を重んじることにより、廃嫡騒動やそれに起因する家臣団の派閥化といった近隣諸国では頻繁に見られる内部抗争や離反を防ぐことに成功。さらにその結果として宗家のほとんどが同母兄弟となり、その元に構成された一門と家臣団には強い絆が伴った。ただし、近年の研究では系譜上は正室の子とされていた者が実際には側室の子であったことが判明しているケースも多いことに注意を要する(北条氏邦・千葉直重など)。 東国において、古河足利氏、両上杉氏、佐竹氏など、血統を誇って同族間での相克を繰り返し国人の連合を戦力とした旧体制に対して、定期の小田原評定による合議制や、虎の印判による文書官製など、創業時の室町幕府系家臣団由来による制度の整った官僚制をもって力を蓄えた。 飢饉の年には家督を代替わりすることによって徳政令を出すという施政も見受けられた。 |
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【投稿日】2026/05/18 19:14:02 【投稿者】匿名さん |
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後北条氏(ごほうじょうし/うじ)は、武家・華族。小田原北条氏、相模北条氏とも呼ばれる。 鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏と区別するため、「後」を付して「後北条氏」、相模国小田原の地名から「小田原北条氏」、「相模北条氏」とも呼ばれる。 伊勢盛時を祖とし、戦国時代に戦国大名として、関東を広く支配したが、1590年の豊臣秀吉の小田原征伐で滅びた。 分流の氏規の子孫が存続し、江戸時代には狭山藩主家、維新後は子爵家となった。他の分流としては、久野城主(久野屋敷)を務めた、北条幻庵を始祖とする久野北条氏や、相模玉縄城主を努めた氏時を始祖とする玉縄北条氏、武蔵小机城主を努めた氏尭を始祖とする小机北条氏、などがある。 本姓平氏、桓武平氏伊勢氏流とする。戦国時代、備中伊勢氏より出て、駿河国の守護・今川氏親を補佐して伊豆の北条に旗を立てた伊勢盛時を祖とし、2代氏綱より、相模国小田原城を本拠とし、5代にわたり関八州に戦国大名として威勢を振るった。 北条を名乗ったのは2代氏綱からで、厳密には4代しか続いていないといえなくもないが、狭山北条氏の寛永の呈譜でも初代は伊勢長氏とされており、同じ頃(寛永18年)刊行された三浦浄心『北条五代記』の「北条早雲」が流布して、盛時も含めて5代続いたとみなされている。 盛時のとき相模三浦氏を滅ぼし、3代氏康のとき扇谷上杉氏を滅ぼし、周辺諸国を切り従えた。5代・氏直のとき織田政権に臣従しようとしたが、本能寺の変のあと、北関東での抗争を続けて豊臣政権と対立、天正18年(1590年)、秀吉の小田原征伐により戦国大名としては滅亡した。 しかし分流の氏規や、その息子の氏盛が秀吉より下野国や河内国内に知行を与えられ、江戸時代にも河内国狭山藩1万石を領する外様大名として存続、明治維新後には華族となり、明治17年(1884年)の華族令施行後子爵家に列した。 室町幕府の幕臣(奉公衆または申次衆)であった伊勢盛時の姉(北川殿)は、駿河国の守護大名・今川義忠に嫁いでいた。今川義忠が応仁の乱の混乱のさなか討死した後、今川家では家督争いが起きた。早雲は駿河国に下向し、北川殿の子で甥にあたる龍王丸(後の今川氏親)を支援して家督を相続させた。六巻本『北条記』は、盛時はこの功績により氏親から駿河国富士郡下方庄を与えられ、興国寺城に在城した、としている[7]。明応2年(1493年)、盛時は伊豆国を攻めて堀越公方の子・足利茶々丸を滅ぼし、北条に旗を立てて、韮山城に在城した[8]。 明応4年(1495年)に盛時は、大森氏から相模国の小田原城を奪って本拠地を移し、1516年に三浦義同を滅ぼした。 初めて北条氏を称したのは盛時ではなく、2代氏綱とみられている。 盛時は、『備中伊勢氏系図』に、伊勢備中守貞定の子で、伊勢駿河守貞雅の養子として伊豆に下り、北条氏の祖になったとされている。 黒田基樹は、伊勢氏の宗家は室町幕府の要職であった政所の長官である執事を代々世襲していたにもかかわらず、「北条」に改姓した理由として、上杉氏ら関東の旧来勢力から伊勢氏は“外来の侵略者(他国の兇徒)”とみなされており、それまで相模守護であった扇谷上杉氏に代わる相模国主としての正当性を得るために、かつて鎌倉幕府を支配した代々の執権北条氏の名跡を継承した、という体裁を宣言したからだとしている。 そして家紋・旗印もそれまでの「伊勢対い蝶」から「北条三つ鱗」に改めた。 なお山内・扇谷両上杉氏や、長尾上杉氏などの北条家の敵対勢力は、後年まで旧名字の「伊勢」で呼び続けた。対する北条家側も、長尾上杉氏のことを旧名字の「長尾」で呼び続けた。 氏綱から名乗った「左京大夫」、氏康から名乗った受領名「相模守」も、鎌倉北条氏で、歴代の執権が名乗った古例を踏襲したものである。以後、当主が左京大夫を名乗り、隠居後に相模守を名乗るのが通例となった。 執権北条氏との血統的なつながりは、以下に示す通りである。 北条時政―時子(足利義兼室)―足利義氏―吉良長氏―今川国氏……今川泰範―今川範政……今川氏親―瑞渓院(北条氏康室)―北条氏政 北条時政―義時―実泰―実時―顕時―女子(足利貞氏室)―高義―女子(上杉朝定室)―朝顕―女子(今川泰範室)―範政……氏親―瑞渓院(北条氏康室)―北条氏政 また黒田は、北条氏綱正室であった養珠院殿が、後北条氏家臣で鎌倉時代最後の北条得宗・北条高時末裔を名乗っていた横井氏(横江氏)出身の可能性を指摘している。 小和田哲男は、北条氏は京都との接触を最低限に止め、平将門以来関東にあった「中央からの半独立」という願望を具現化することを国是としていたとする。 関東管領職の継承に固執したのもそのためで、関東の地に関東公方を盟主とした独立国家を目指していた、としている。 佐々木健策は、氏綱が継室(近衛殿)を近衛家から迎えていること、相模国の守護所を目指していた小田原の城下町形成の過程で、京都や奈良の職人を積極的に招聘していたことなどを挙げ、関東公方はもとより、室町幕府や朝廷との関係を自らの威信として利用することで、関東における主導権を確立しようとしたと説いている。 なお北条を名乗り始めた正確な時期について、箱根権現の宝殿の修造完成を機に作成された大永3年(1523年)6月12日付の棟札が「伊勢」の名乗りで記され、同大永3年(1523年)9月13日に書かれた公家の近衛尚通(後に娘が氏綱の継室となる)の日記『後法成寺関白記』の記述には「北条」の名乗りが登場していることから、その3か月の間に行われたと推定されている。 また永正15年(1518年)7月、小弓公方として自立した足利義明を共に支援することで同意したため、成立した伊勢(北条)・扇谷上杉両家の和睦がこの時期に破綻、山内・扇谷両上杉氏の同盟が成立し、さらに伊勢(北条)・扇谷上杉両勢力の境目にあった小机城一帯が直後に北条領になったと推定されることから、北条改姓は扇谷上杉氏との関係破棄の一環として行われた、とする見方もある。 北条氏綱以降、北条氏康、北条氏政、北条氏直と小田原城を本拠に4代続いた。 氏綱の代に、関東管領上杉氏、小弓公方、分裂した真里谷氏、里見氏との対立が強くなり、第一次国府台合戦において小弓公方を滅ぼした。 この功により、古河公方との協調を深め婚姻関係で結び、後に「川越城の密約」による決裂までは大いに協調した。三浦浄心『北条五代記』や「北条氏康条書」(伊佐早文書所収)などでは、氏綱は関東管領として古河公方を背景として勢力拡大の根拠としたとされ、この管領職が氏康、氏政に世襲され、山内家家督と、管領職を後継した越後長尾氏の出自である上杉謙信との対立となった。 氏康期の天文22年(1553年)には、甲斐武田氏、駿河今川氏との甲相駿三国同盟が成立、信濃において山内上杉氏・越後長尾氏と敵対する武田氏とは協調して北関東・上野における領国拡大を進めた。 永禄11年(1568年)末、武田氏の駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)によって三国同盟は破綻、越相同盟締結に際して、謙信が義氏を古河公方と認めることにより、北条家は謙信を山内家の後継者として認めることとなって、北条管領は消滅した。 またこの際に北条氏に亡命した今川氏当主の今川氏真(正室は氏康の娘の早川殿)に迫って、氏政の子である国王丸(後の氏直)を養子として今川氏当主の座を譲らせたことによって、駿河今川領国を支配する大義名分を得た。 しかし越相同盟は次第に形骸化、国王丸を今川氏当主にして駿河を併合する計画も、駿河を占領する武田軍に敗れたことで失敗に終わったため、氏真と国王丸の縁組は解消されている。 天文15年(1546年)の河越夜戦により、扇谷家を滅ぼし山内家を越後に追放した後には、関東公方足利氏を追って古河城を治めた。 後に北関東方面では宇都宮氏、結城氏、佐野氏、佐竹氏、皆川氏、那須氏、小山氏、太田氏、東には小弓公方、千葉氏、小田氏、里見氏、武田氏(真里谷氏)、正木氏、酒井氏、北武蔵・上野方面で由良氏(横瀬氏)、成田氏、上田氏、上杉旗下だった大江流毛利一族の北條氏、藤田氏、長野氏、三田氏などと、外圧となった関東管領上杉氏、長尾氏これらと同盟時に武田氏、今川氏、三浦氏に繋がり「会津守護」を称する蘆名氏、などと合従連衡の争いに明け暮れた。 局所的な戦闘においては敗退することもあったが、着実に支配を広めた。 氏政が実権を掌握した元亀2年(1571年)には、甲斐武田氏との甲相同盟を回復させるが、天正6年(1578年)の越後上杉氏における御館の乱、武田と上杉氏の甲越同盟を期に甲相同盟を再び手切れとし、武田氏と敵対する徳川家康と結び、織田信長に接近し、氏直の嫁を織田氏から迎えようとしたが、縁組は実現しなかった。 天正10年(1582年)、武田攻めにより、武田氏を滅ぼした後、織田氏は重臣の滝川一益を関東入りさせ、上野国を中心に主に北関東諸侯がこれに従った。後北条氏は織田氏との同盟関係の維持を模索していたが、同年6月に本能寺の変が起き、信長が死亡すると、神流川の戦いで滝川を破り、織田氏の旧領を領有。甲・信・駿地方の領有を争い対立した徳川氏とは同年10月に和睦して同盟関係となったが、天正11年(1583年)以降、北関東で抗争を続け、織田政権を継承した豊臣氏と対立した。 天正14年(1586年)時点での勢力範囲は、伊豆・相模・武蔵・下総・上総北半・上野南半・下野西半、駿河・常陸の一部に及んだ。 小牧・長久手の戦い・四国征伐・九州征伐を経て、日本をほぼ統一した豊臣秀吉に対して、北条家も他の大大名と同様大名家の家格を維持すること、領民に手を出さないこと(民政不介入)を条件に恭順の意思を示していた。 しかし天正17年(1589年)に上野国名胡桃において、かねてより真田家との間にあった領土紛争が拗れ、北条家家臣の猪俣邦憲が、独断で真田家の名胡桃城を攻撃、これを占領した(名胡桃城事件)。 この事件は、豊臣政権が諸大名家に対して私戦を禁止した惣無事令に背いたとされ、天正18年(1590年)に豊臣秀吉は諸大名を動員、小田原征伐を号令した。これによって戦国大名家としての後北条氏は滅亡することとなる。 この時点まで、秀吉は明智光秀や柴田勝家を滅ぼしたとはいえ、毛利・長宗我部・島津・徳川・織田といった大名家に対しては、領地削減などはあれど、これらを廃することなく処していた。 徳川氏や島津氏・長宗我部氏などは、豊臣政権と一度は交戦に至ったものの、最終的な殲滅決戦が行われるより前に、当主が直接的に豊臣政権への忠誠を誓うことによって本領が安堵されている。 ゆえに、豊臣政権が目指していたのは、北条氏らを滅亡させることではなく、あくまでも惣無事令の全国施行によって、領土紛争に対する裁判権を豊臣が掌握することにより、全国の諸大名を支配することにあった、とする説もある。 真田氏との領土紛争に際して秀吉は当初、仲裁者の立場に立っており、北条氏有利の裁定を下している。 小田原城開城の際、隠居の氏政および氏照は切腹、鉢形城で捕虜となった氏邦は出家となり、前田利家に預けられた。 当主の氏直は助命されて高野山に流された。謹慎は早々に解除され、大名待遇で大阪城下に屋敷を与えられ、また賄領1万石を給され、徐々に格式を回復しつつある最中の翌天正19年(1591年)、氏直は疱瘡にかかり、数え30の若さで死去した。氏直には男子がいなかったため、北条氏の家督は叔父の氏規に継承され、河内国丹南河内2郡において6,980石余を給う。 その子・氏盛も天正19年(1591年)に下野国内で4000石を拝領しており、慶長5年(1600年)の氏規の死後に氏規の遺領も次いで都合1万1000石の大名となった。 元和2年(1616年)、狭山陣屋を本拠とするようになり、河内狭山藩が生まれた。以降後北条氏は12代にわたって狭山に在封、明治維新を迎えた。この間、領地はたびたび変動したが、5代・北条氏朝以降は近江、河内の両国内にまとまった。 だが、11代の北条氏燕(先代の養父は先々代の娘婿で氏燕は先々代の甥)の代で、北条氏綱以来の北条家の血は絶え次代以降は他家の人間が北条家を継承していく(現存しているもう一つの家である北条新蔵家も既に5代・氏庸の代で絶えている)。 傍系の北条綱成子孫で、鎌倉衆を束ねていた氏勝があり、彼は小田原征伐の際に守城の玉縄城を開城、降伏し、以後は徳川家康に家臣として仕え、家康の関東入国後には岩富1万石を与えられていた。 これが江戸時代前期に譜代大名の岩富藩となっている。保科氏から迎えた養子・氏重が後を継ぎ、下野富田藩 → 遠江久野藩 → 下総関宿藩 → 駿河田中藩 → 遠江掛川藩と加増移封され、最大で3万石を領するようになったが、彼の死後に無嗣廃絶。 氏勝の甥にあたる氏長は、北条流兵学の創始者となり、幕臣として大目付まで出世し、5000石の大身旗本となった。 氏直の弟の直重は、千葉邦胤の養子となって千葉直重と名乗っていた。小田原征伐で、千葉氏を率いて小田原城に籠城した。合戦後は妻と離別して兄の氏直に従い、高野山に隠棲、のち阿波の蜂須賀氏に仕官した。その後苗字を大石 → 伊勢 → と改めながら、幕末まで続いた。 北条氏忠の正室と娘の姫路は毛利輝元に預けられ、のちに長門国に知行1000石を与えられた。正室の死後、輝元の家臣・出羽元盛の次男が姫路の婿となり北条就之と名乗った。 この家系は江戸時代を通じて長門国萩藩士として存続し、幕末には大坂留守居役北条瀬兵衛(伊勢氏華)・北条源蔵(伊勢煥。幕府咸臨丸の訪米団に参加した。)の兄弟を出した。 北条氏光の子の北条氏則(-1636)は、小田原落城後は母や姉と共に京都大徳寺に蟄居した。氏則の娘は北条氏長に嫁いでいる。 氏則の子の氏平は、播磨国龍野藩主の小笠原長次に招かれ、家禄7百石で客分となった。室は小笠原内膳の娘。小笠原家が九州豊前国中津藩に転封されるとそれに従ったが、のち同家を退去して江戸に住んだ。氏平は、石見国津和野藩主坂崎直盛の弟の三好家次の次男の氏信を婿養子とした。 譜代大名の伊丹氏から肥前国大村藩に養子入りした大村純長の実母は、三好家次(井上家次?)の娘つまり氏信の実姉であった。この縁により慶安4年(1641年)に氏信は大村家臣となり、純長の信任厚く同藩家老職や藩主代行をも勤めた。以降の子孫は養子を迎えながらも、大村藩で要職を歴任した。 最後の狭山藩主北条氏恭は、明治維新後に華族に列し、1869年(明治2年)6月の版籍奉還で狭山藩知事に転じたが、軍費と藩債がかさんでいたことから、同年に廃藩置県を待たずに藩知事を辞任し、藩は堺県に合併された。 廃藩置県の際に定められた家禄は547石。 明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は、2万3953円60銭9厘(華族受給者中197位)。明治前期の氏恭の住居は東京市麹町区下二番町、当時の家扶は早川義太郎。 氏恭は華族令施行後の1884年(明治17年)7月8日、旧小藩知事として子爵に叙され、侍従や宮中顧問官を務めた。 その息子で爵位を継いだ北条謙吉子爵は陸軍軍人となり、歩兵中佐まで昇進し、皇族付武官を務めた。 その後爵位を継いだ弟の北条雋八子爵は、帝室林野局に勤務した後、貴族院の子爵議員に当選して務めた。戦前から日蓮正宗を信仰しており、戦後には創価学会の推薦を受けて参議院議員となり、公明党結成に参加した。その甥(氏恭の孫)の浩も公明党の参議院議員を務めた後、創価学会の第4代会長となった。 |
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【投稿日】2026/05/18 19:12:05 【投稿者】匿名さん |
| 聖徳太子一族で天武天皇の子孫の田中一族が奈良時代から各地を開墾して地名をつけ、そこに住んだ子孫や家臣など関係者が名乗っています。 聖徳太子の別名が多利思比(北)狐であり、その北です。聖徳太子一族の条里または十七条憲法の条を使ったと思われます。 十と七も地名に多用していますので。 田中の子孫はたくさんの天皇に嫁ぎ子孫が源平になりました。 南海トラフ被災により北条姓の方が先祖地の出羽総本家のある秋田にたくさん避難して来ています。伊豆も田中が開墾し先祖の伊志支那郎女と宇豆彦の字からで、田中の子孫に伊都内親王もいます。田方も田中の祖父母の田中王と円方女王の夫婦の字の組み合わせです。 |
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【投稿日】2025/06/20 16:51:14 【投稿者】妹子と天武天皇と坂上と鎌足の子孫・小町さん |
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大江姓毛利氏の一族に、越後の北条(きたじょう)氏がいた。 新潟県柏崎市の北条城の城主だった。 |
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【投稿日】2018/06/22 14:41:57 【投稿者】ちば子さん |
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